勝長寿院は、
源頼朝が父
義朝の菩提を弔うために建立した寺院。
頼朝は、建設中の勝長寿院に父義朝の廟所を設けるため、
後白河法皇に義朝の首の探索を依頼していました。
『吾妻鏡』によると、
1185年(文治元年)8月12日、
後白河法皇は、刑官に命じて、東の獄門の辺りで
義朝の髑髏(しゃれこうべ)を見つけ出させ、義朝の郎党鎌田政清の髑髏(しゃれこうべ)とともに、大江公朝に持たせ鎌倉へ向かわせています。
8月20日、
義朝の遺骨を葬るに当たっての法事を行うため、
伊豆山権現の專光坊良暹が鎌倉に到着。
8月30日、大江公朝が鎌倉に到着。
遺骨は、
文覚の弟子が首にかけていました。
頼朝は、片瀬まで出迎えて、父
義朝と鎌田政清の髑髏(しゃれこうべ)を受け取ったそうです。
(片瀬)
本蓮寺は、頼朝が再建した寺で、義朝の遺骨を受け取った場所ともいわれています。
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そして、9月3日午前0時頃、
頼朝は、
義朝と政清の遺骨を勝長寿院に葬りました。
立ち会ったのは大内義信、毛利頼隆、大内惟義らの源氏のみ。
(勝長寿院跡)
大内義信は、
新羅三郎義光の四男で、
平治の乱で義朝に従い、敗戦後、東国に逃れる義朝に従った七人のうちの一人でした。
毛利頼隆は、
八幡太郎義家の孫で、父義隆は
平治の乱で義朝の身代わりとなって討死しました。
大内惟義は、
新羅三郎義光の孫で大内義信の長男。
一緒に葬られた鎌田政清は、
義朝の第一の郎党で、政清の母は義朝の乳母でした。
そのため、義朝と政清は乳兄弟とも呼ばれていました。
平治の乱後、東国に逃れようとする義朝に従っていましたが、
尾張国野間で
長田忠致の裏切りに遭い、義朝とともに暗殺されています。
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