別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2022年5月15日日曜日

勝長寿院に葬られた源義朝の髑髏


勝長寿院は、源頼朝が父義朝の菩提を弔うために建立した寺院。

頼朝は、建設中の勝長寿院に父義朝の廟所を設けるため、後白河法皇に義朝の首の探索を依頼していました。


勝長寿院跡


『吾妻鏡』によると、

1185年(文治元年)8月12日、後白河法皇は、刑官に命じて、東の獄門の辺りで義朝の髑髏(しゃれこうべ)を見つけ出させ、義朝の郎党鎌田政清の髑髏(しゃれこうべ)とともに、大江公朝に持たせ鎌倉へ向かわせています。


8月20日、義朝の遺骨を葬るに当たっての法事を行うため、伊豆山権現の專光坊良暹が鎌倉に到着。


8月30日、大江公朝が鎌倉に到着。

遺骨は、文覚の弟子が首にかけていました。

頼朝は、片瀬まで出迎えて、父義朝と鎌田政清の髑髏(しゃれこうべ)を受け取ったそうです。


本蓮寺
(片瀬)

本蓮寺は、頼朝が再建した寺で、義朝の遺骨を受け取った場所ともいわれています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


そして、9月3日午前0時頃、頼朝は、義朝と政清の遺骨を勝長寿院に葬りました。

立ち会ったのは大内義信、毛利頼隆、大内惟義らの源氏のみ。


義朝と政清の五輪塔
(勝長寿院跡)


大内義信は、新羅三郎義光の四男で、平治の乱で義朝に従い、敗戦後、東国に逃れる義朝に従った七人のうちの一人でした。

毛利頼隆は、八幡太郎義家の孫で、父義隆は平治の乱で義朝の身代わりとなって討死しました。

大内惟義は、新羅三郎義光の孫で大内義信の長男。


一緒に葬られた鎌田政清は、義朝の第一の郎党で、政清の母は義朝の乳母でした。

そのため、義朝と政清は乳兄弟とも呼ばれていました。

平治の乱後、東国に逃れようとする義朝に従っていましたが、尾張国野間長田忠致の裏切りに遭い、義朝とともに暗殺されています。



源義朝

源義朝終焉の地

歴史めぐり源頼朝







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