別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年1月23日日曜日

鎌倉桜情報!ソメイヨシノ開花予想2022/01/20


建長寺


桜は夏に翌年の春に咲く花芽が出来上がります。

ただ、葉から休眠ホルモンが出され、それ以上に進むことはなく休眠という状態になります。

休眠した花芽は、一定期間低温にさらされると休眠から覚めます(休眠打破)。

その後、気温上昇とともに生長して春に開花します。


1月20日発表の「ウェザーマップ」の開花予想によると、休眠打破は平年並みで東京の開花は3月23日。



鎌倉の桜








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022桜の開花・満開情報


2022鎌倉で花見



☆ ☆ ☆ ☆ ☆

あたみ桜

頼朝桜まつり~鋸南町~

松田町の河津桜


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~鎌倉原産の桜~
(京都で人気を集めた鎌倉桜)

鎌倉桜~桐ヶ谷~

普賢象


よりともジャパン.com


以仁王と源頼政の挙兵


1159年(平治元年)に起こった平治の乱

この戦いで、源義朝をはじめとする有力な源氏武士が滅亡。

勝利した平清盛は武士の第一人者となりました。

1167年(仁安2年)には、武士としては初めての太政大臣に昇り、全盛期を築き上げていきましたが、後白河法皇との間に亀裂が入るなど、次第に平氏政権がゆらぎ始めます。

1179年(治承3年)11月、クーデターによって後白河法皇を幽閉。

翌1180年(治承4年)2月には、娘徳子の生んだ安徳天皇を即位させ独裁政治を行っていました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~以仁王挙兵~

『吾妻鏡』によれば、1180年(治承4年)4月9日、源頼政は子の仲綱とともに以仁王の三条高倉御所へ行き、平家打倒を進言。

以仁王はその申し入れを聞き入れ、伊豆の源頼朝をはじめとする源氏に令旨を発しました。

(※親王宣下もされていない王の命令書は「令旨」とは言わないようですが・・・)


その令旨は4月27日に伊豆の北条館にいた頼朝のもとに到着。

頼朝は水干を着て、源氏の氏神・石清水八幡宮を遙拝してから読んだのだといいます。


北条氏邸跡
(伊豆の国市)


(京都)


しかし、以仁王の計画は5月初めには平家に知られてしまいます。

5月15日、以仁王は園城寺(三井寺)に入り、19日には源頼政も近衛河原の自邸を焼き払い園城寺に入ります。



園城寺
(滋賀大津)


ただ、園城寺には僧兵が少ない事から、5月26日、南都へと向かうのですが・・・

宇治で平家軍2万騎に追いつかれ、以仁王と頼政は討死しました(平等院の戦い)。


源頼政の墓
(平等院塔頭・最勝院)


源頼政は、源頼光を祖とする摂津源氏。

平治の乱後、源頼朝が伊豆に流されたのは、頼政が伊豆守だったからという説もあるようです。

「平家にあらずんば人間にあらず」とまで言われた清盛政権の中で、源氏では珍しい従三位に叙せられ「源三位」と称されていました。



源頼政

以仁王


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~南都とは・・・~

以仁王と源頼政が目指した南都とは興福寺のこと。

平安時代末期、興福寺延暦寺園城寺(三井寺)・東大寺などを拠点に僧兵が強大な武力集団を組織していました。

「南都北嶺」という言葉がありますが、南都は興福寺、北嶺は延暦寺を指します。

興福寺の僧兵は「衆徒」あるいは「奈良法師」、延暦寺の僧兵は「山法師」と呼ばれていたようです。

白河法皇は、自分の意のままにならないものとして、

☆賀茂川の水

☆双六の賽

☆山法師

を挙げていたのだといいます。


興福寺

東大寺大仏殿

比叡山延暦寺


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

その後・・・

6月2日、清盛は福原京へ遷都を強行。

8月17日、源頼朝挙兵。

10月6日、源頼朝鎌倉入り(10月7日という説も)。

10月20日、富士川の戦いで平家軍敗走。

11月26日、平安京に還都。

12月28日、南都焼討

翌年閏2月4日、平清盛死去。

やがて、京は木曽義仲に奪われ平家は都を落ちます(1183年(寿永2年))。

その後都に戻ることなく、1185年(文治元年)3月24日、源頼朝によって壇ノ浦に滅ぼされました。




以仁王の令旨と源頼朝

平家打倒の命令書~以仁王の令旨~


三嶋大社

源頼朝配流の地・北条氏発祥の地

北条の里~頼朝・時政・政子めぐり~


山木館襲撃~源頼朝の挙兵~


源頼朝挙兵







☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人


特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

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2022年1月22日土曜日

以仁王の令旨発布から源頼朝が挙兵するまで。


源頼朝



『吾妻鏡』が伝える源頼朝が挙兵するまでの流れは以下のとおり。


4月9日、源頼政が息子仲綱とともに三条高倉の以仁王のもとへ行き、諸国源氏を催して平氏を討滅するための令旨を賜わります。


高倉宮跡碑


4月27日、伊豆国の北条館令旨が到達。

5月19日、自らも挙兵した以仁王が園城寺(三井寺)に入ります。

その後、南都の寺院勢力を味方に付けようとして、5月26日、源頼政とともに南都へ向かった以仁王でしたが、宇治平等院での戦いに敗れて討死。


園城寺
(滋賀大津)

源頼政の墓
(平等院塔頭・最勝院)


6月19日、平氏が全国の源氏追討を計画していることが三善康信の使者によって報告され、「奥州へ逃れるように」と伝えられました。

(※三善康信は、頼朝の乳母の妹の子といわれ、伊豆に流された頼朝に、月に三度、京の情報を届けていたのだと伝えられています。)


6月24日、先手を打って平氏を討滅することを決意した頼朝は、源氏累代の家人を招集するため安達盛長と中原光家を派遣。


6月27日、大番役で京都にいた三浦義澄と千葉胤頼が、その帰路、北条館を訪問。

何が語られたのかは不明ですが、おそらく挙兵の事が話されたのかと・・・

(※三浦義澄は三浦義明の嫡男。千葉胤頼は千葉常胤の六男。)


7月10日、安達盛長が「相模国には従う者は多くいますが、波多野義常山内経俊は、呼びかけに応ずるどころか、暴言を吐く始末です」と報告。


8月2日、平等院の戦いに出陣していた大庭景親をはじめとする平氏方の武将が東国に帰ってきました。


8月4日、最初に伊豆国の目代山木兼隆を攻めることに決定。

北条時政を呼んで山木兼隆を討つための軍略を練ります。

この日以前に藤原邦通を密偵として山木館に送り込んでいた頼朝は、邦通に館図や地図を作らせていました。

そして、この日、邦通が作成した館図と館付近の地図が届けられました。

その出来映えは、まるで現地にいるかのようなものだったといいます。


8月6日、挙兵の日を8月17日と決定。


8月11日、相模国渋谷荘の佐々木秀義が嫡男の定綱を頼朝のもとへ遣わし、大庭景親に頼朝討伐の計画があることを報告。

8月12日、岡崎義実とその子佐奈田義忠を招集。

8月13日、佐々木定綱が渋谷荘へ帰りますが、頼朝は16日まで戻るよう伝えています。

8月16日挙兵前日・・・

17日の明け方に山木館襲撃を考えていた頼朝でしたが、佐々木四兄弟をはじめとする武将が到着せず・・・

悩む頼朝。


8月17日挙兵当日・・・

この日は頼朝が崇敬していた三嶋社の祭礼。

安達盛長が代理として参拝しています。

午後になって佐々木四兄弟が到着しました。

定綱経高は疲れた馬で、盛綱高綱は徒歩での到着です。

頼朝はとても喜びます。

そして、涙を浮かべながら、

「お前達の遅刻で、予定していた今朝方の合戦が出来なかった。残念である」と語ります。

佐々木四兄弟は、「洪水のため遅れました」と申し上げ、謝罪したといいます。

その晩、頼朝山木館を攻めさせます。




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源頼朝挙兵







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2022年1月21日金曜日

伊豆国に流されていた源頼朝と文覚の伝説~『平家物語』~


『平家物語』によると・・・

源頼朝は、1159年(平治元年)12月に父義朝が起こした謀反(平治の乱)によって死罪となるはずでしたが、平清盛の継母池禅尼の懇願により、1160年(永暦元年)3月20日に伊豆国蛭ヶ小島に流罪となりました。

伊豆国で約20年を過ごした頼朝は、1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をします。

それは、高尾(京都)の文覚上人に勧められたからなのだそうです。


(伊豆の国市)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

文覚が修行のため住んでいたという高尾には称徳天皇の時代に建立された神護寺という寺がありましたが、長い間修繕されていなかったため荒廃し、住職もいない状況だったのだといいます。

この神護寺を再興させようと願った文覚は、勧進帳を持って布施をする人を求めて歩き回っていたそうです。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆

ある時、後白河法皇の院御所法住寺殿に参り、寄進を奏上することにします。

後白河法皇は管弦と歌の催しの最中でしたので奏聞にも及びませんでしたが、荒法師だった文覚は法住寺殿の中庭に入って大音声を上げて勧進帳を読み上げ、寄進を強要したのだといいます。

そのため、法皇の怒りに遭い、伊豆国に流されることとなったのだそうです。



三十三間堂は、後白河法皇平清盛に命じて創建した蓮華王院の本堂。

後白河法皇の院御所法住寺殿の一画に建てられました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

文覚が流されたのは、源頼朝のいる蛭ヶ小島に近い奈古屋(奈古谷)でした。

日頃、頼朝の許を訪ねて話しをしていた文覚は、ある時、謀反を起こして平家に代わって日本国を従えるよう勧めます。

頼朝が「池禅尼に命を助けられた身であるから、その恩に報いるために、毎日法華経を唱えるほかは、何もしたいとは思わない」と答えると、

文覚は「時が巡ってきているのに行動を起こさなければ、かえって災いを受ける」と言って懐より白い布で包んだ髑髏を一つ取り出しました。

それは、平治の乱後、尾張国野間で家臣の裏切りに遭い暗殺された頼朝の父義朝のものでした。

その後、文覚は都へ上り、院宣を賜って戻ってきたのだとか・・・

頼朝は院宣を錦の袋に入れて、石橋山の戦いの時も首に掛けていたのだといいます。


(伊豆の国市)

毘沙門堂は、文覚が草庵を結んだ場所と伝えられています。



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後白河法皇

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