別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2021年9月10日金曜日

日向のヒガンバナMAPとバス時刻表



彼岸花MAPは、伊勢原駅の観光案内所で配布されています。




源頼朝北条政子が信仰した日向薬師麓の里山に咲くヒガンバナ

日向のヒガンバナ


例年の見頃は9月中旬から下旬にかけて。

毎年設置される臨時観光案内所は設置されません。



大山・日向ハイキング


日向の彼岸花


日向薬師

大山寺


日本遺産・・・大山






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小出川の彼岸花

西方寺のヒガンバナ

常泉寺のヒガンバナ

英勝寺のヒガンバナ


鎌倉のヒガンバナ
ヒガンバナ


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2021年9月8日水曜日

源頼家の弓の師範となった下河辺行平


1190年(文治6年)4月7日、源頼朝下河辺行平に書状を送り呼び出します。

その理由は、嫡男の頼家の弓の師範になってもらうため。

頼朝は書状とともに馬も送っています。


そして、4月11日、頼家がはじめて小笠懸を射る儀式が御所の南庭で行われます。

行平は「引目矢」(蟇目)を献上し、命により頼家の手伝いをしました。

三浦義澄は的、千葉常胤は馬、小山田重成は鞍、八田知家は乗馬袴の行縢(むかばき)と乗馬沓、宇都宮朝綱は水干と袴を献上。

小山朝政足立遠元畠山重忠・小山田重朝・和田義盛梶原景時らが呼ばれ、その他多くの御家人が集まりました。

小笠懸は三度行われましたが、皆、その腕に感心したのだといいます。

その後の酒宴の席で頼朝は、頼家の弓の師匠である行平に刀を与えています。


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下河辺行平は、下総国下河辺荘の荘司だった武将。

下野国小山荘を本拠とした小山氏の一族で、小山政光は伯父にあたります。

弓の名手だった行平は流鏑馬・笠懸・弓始などの射手に選ばれ、『吾妻鏡』は頼朝から「日本無双の弓取」と称賛されたと伝えています。

1195年(建久6年)11月6日には、頼朝から准門葉(源氏一門に準ずる)という覚書を与えられました。



下河辺行平






☆ ☆ ☆ ☆ ☆

2022年の大河ドラマ
鎌倉殿の13人


二代執権北条義時


宿老13人の合議制


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2021年9月7日火曜日

顔がでかくて美しく背が低くて雅~源頼朝~


伝源頼朝像
(東京国立博物館蔵)


東京国立博物館

https://www.tnm.jp/


東京国立博物館に収蔵されている源頼朝像は、鶴岡八幡宮白旗神社に安置されていたものと伝えられています。

1590年(天正18年)、「鶴岡八幡宮を詣でた豊臣秀吉は頼朝像を撫でながら天下を語った」という逸話が残されていますが、秀吉の相手をしたのがこの像なのでしょうか・・・。


(甲斐善光寺)

こちらは甲斐善光寺源頼朝像

甲斐善光寺武田信玄上杉謙信との戦いの際に、信濃善光寺の本尊・善光寺如来をはじめとする寺宝を山梨郡板垣郷に移したことに始まります。

頼朝像もそのときに持ち込まれたようです。

信濃善光寺は、1179年(治承3年)に焼失後、頼朝がその再建を援助しました。

善光寺には「源三代将軍堂」があったのだといいます。

※甲斐善光寺の源頼朝像は、2020年度(令和2年度)の解体修理で玉眼が入れられました。


ただ、東京国立博物館の像とこの像の顔はちょっと雰囲気が違うようです。

頼朝は、いったいどのような顔をしていたのでしょうか。


伝源頼朝像
(神護寺)

神護寺の源頼朝像を観るとさらにわからなくなりますが・・・。



『源平盛衰記』は頼朝の容姿について・・・

「顔が大きく、背が低い」

「顔立ちは、美しく、姿は、おくゆかしく雅である」

と紹介しています。


なるほど・・・

「顔がでかくて美しく背が低くて雅」ということのようです。


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善光寺本堂



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歴史めぐり源頼朝


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源実朝が将軍になった日~比企能員の変~


(甲斐善光寺)


1203年(建仁3年)9月7日、源頼朝の二男千幡(実朝)を征夷大将軍とする宣旨が発布されました。

同時に従五位下の位が授けられています。


さて・・・

『吾妻鏡』は、「9月7日に二代将軍頼家が出家し、9月10日に千幡を三代将軍にすることに決定した」と伝えています。

しかし、宣旨が発布されたのは9月7日。

何故か?


それは、北条時政北条政子が朝廷に嘘の申請をしたからのようです。

近衛家実の『猪熊関白記』や藤原定家の『明月記』には・・・

「頼家が9月1日に死去したため、弟に継がせたいという幕府の申請をうけ、9月7日、朝廷は弟を征夷大将軍に任命し、実朝の名を与えた。

2日には頼家の子や比企能員が実朝もしくは北条氏によって討たれた」

ということが記されているようです。


参考までに・・・

『吾妻鏡』によると、宣旨が鎌倉に届いたのは9月15日。

その時の記録では9月7日に発布されたことも載せられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

では何故、嘘の申請をする必要があったのでしょう。

「頼家が死んだ」という嘘の申請をすれば、すぐにバレてしまうと考えると思いますが・・・

慈円の『愚管抄』は「頼家は病気となったことで自ら出家して嫡子の一幡を後継者と決めていたが、それを知った時政が千幡こそ後継者だとして能員を呼び寄せ刺し殺した」と伝えています。

「頼家が後継者を一幡と決めていた」という事が発表される前に、時政政子は何とかする必要があったのではないでしょうか。

そして、重病の頼家は「間もなく死ぬ」ので「比企能員と一幡を殺害して千幡を将軍に」という計画が浮かんだのかもしれません。

9月2日の比企能員暗殺を『吾妻鏡』は、能員が時政討滅を企てたことが発端としているようですが、おそらく後から考えられた作り話なのかと・・・

ただ、想定外だったのは、頼家は死なずに比企能員の変後に快復してしまった事だったのかもしれません。


源頼家の墓
(伊豆:修禅寺)

その後、頼家修禅寺に幽閉され、翌年暗殺されました。


修禅寺指月殿

修禅寺指月殿は、頼家の冥福を祈って政子が建立したのだと伝えられています。






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比企氏の乱

修禅寺


北条時政

比企能員

北条政子

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二代執権北条義時

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2021年9月5日日曜日

鎌倉の面掛行列




「鶴岡八幡宮祭礼行列之図」は、江戸時代の鶴岡八幡宮の祭礼行列の様子を描いたもの。

その中には面掛行列も登場します。

1709年(宝永6年)、鶴岡八幡宮の祭礼を見物した紀伊国屋文左衛門は『鎌倉三五記』に行列の順序をこう記しているようです。

陵王・小飛出・釣眼・大べしみ・しかみ・福禄寿・末社・うそふき・おふく・天女。


※画像は東京国立博物館のページより


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「円覚寺洪鐘祭絵巻」(明治35年)は、61年目ごと(60年に一度)に行われる円覚寺「洪鐘祭」(おおがねまつり)の様子を描いたもの。

洪鐘祭の祭礼行列には、かつて八雲神社(山ノ内)の例大祭で行われていた面掛行列も参加していたようです。

八雲神社の面掛行列は、前回の洪鐘祭を最後に行われなくなってしまったようですが、もしかすると、次回の洪鐘祭で復活するのかも。


※画像は『円覚寺弁才天洪鐘祭附祭絵巻研究成果報告書』より。





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面掛行列


御霊神社(坂ノ下)の面掛行列は、鶴岡八幡宮の放生会で行われていた面掛行列に倣ったものといわています。




面掛衆の面は、爺・鬼・異形・鼻長・烏天狗・翁・火吹男(ひょっとこ)・福禄・阿亀・女(とりあげ)の十面。


面掛行列にまつわる源頼朝の伝説によると・・・

頼朝は非人頭の娘を身籠らせてしまします。

娘のもとへと通う頼朝の警護は非人たちが行ったそうです。

ただし、身分の低い者だったので、面を着けていたのだといいます。









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鶴岡八幡宮例大祭

鶴岡八幡宮神幸祭


洪鐘祭

八雲神社例大祭:山ノ内・山崎


面掛行列


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