別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2021年9月3日金曜日

源頼家の悲劇~比企氏の乱の真相は・・・~


『吾妻鏡』によれば・・・

1203年(建仁3年)8月27日、二代将軍源頼家の病状が悪化する中、日本全体の惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を頼家の長子一幡に、関西三十八ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの実朝)に譲ることが発表されます。

これに反発したのは比企能員でした。

頼家の乳母夫であり、一幡の外祖父である能員は、若狭局を通じて頼家に「北条時政を追討すべきだ」と伝えます。

頼家能員を呼んで、北条氏追討の許可を与えたといいます。

その密議を障子を隔てて聞いていた北条政子は、その事を北条時政に通報します。これを受けた時政は大江広元の支持をとりつけ、先手をうって能員を暗殺したのだといいます。

そして、政子の命によって、頼家の嫡子一幡の小御所が襲われます。立てこもっていた比企一族は滅亡し、一幡も焼け跡から発見されました(9月2日)。

この時、危篤状態だったという頼家は、奇跡的に快復し事件を知ると、和田義盛仁田忠常時政討伐を命じますが失敗に終わり(9月5日)、病気と政治不安を理由に出家しました(9月7日)。

9月29日、頼家は伊豆国修禅寺へ流され、翌1204年(元久元年)7月19日、その死が鎌倉にもたらされています。



源頼家

1199年(正治元年)、父頼朝の死をうけて18歳で家督を継ぎ、1202年(建仁2年)には征夷大将軍に任ぜられました。

1204年(元久元年)7月18日、伊豆国修禅寺で最期を遂げています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


しかし、慈円の『愚管抄』によると・・・

能員の暗殺について

「重病になった頼家は、長子一幡に家督を相続させようとしており、それによって能員が幕政の実権を握ろうとしていることを知った時政は、千幡(のちの実朝)こそ後継者だとして能員を呼び寄せ刺し殺した。」

一幡の館の襲撃について

「8月末に出家をし、大江広元邸で療養する頼家を監視させる一方で、一幡の館を襲撃し、立てこもっていた郎等はみな討たれた」

一幡の死について

「一幡は母とともに脱出したが、11月3日、北条氏の追手に捕らえられ刺殺された」

頼家について

「事件を知って驚いた頼家は、太刀を抜いて立ち上がったものの、病みあがりのため、どうすることもできず、母政子にすがりつかれたりして、やがて修禅寺に押し込められ、翌年刺し殺されてしまった」

と伝えています。

『吾妻鏡』が比企氏の策謀としているのに対し、『愚管抄』は北条氏の策謀としています。

事の流れとしては『愚管抄』の方が納得できる内容なのかもしれません。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源実朝

1203年(建仁3年)9月15日、鎌倉には実朝を征夷大将軍に任じる宣旨が到着します。


近衛家実の『猪熊関白記』や藤原定家の『明月記』には・・・、

頼家が9月1日に死去したため、弟に継がせたいという幕府の申請をうけ、朝廷が弟を征夷大将軍に任命し実朝の名を与えた。2日には頼家の子や比企能員が実朝もしくは北条氏によって討たれた」

ということが記されているようです(9月7日)。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


妙本寺

比企能員の末子能本が建てたといわれる寺です。

比企氏の館があった場所で、境内には比企一族の墓や一幡の袖塚があります。

血なまぐさい戦乱があったとは思えない静かな場所です。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


おそらく、北条氏の当初の計画では、

①まず頼家の重病(=死)があって、
②北条氏に反抗する一幡と比企能員を殺害し、
③実朝を将軍に。

という簡単な流れだったはずです。


しかし、実際は、

①頼家の重病
②一幡と比企能員の殺害
③実朝の将軍就任
④頼家の快復
⑤頼家の幽閉
⑥頼家の暗殺

という流れになってしまったのかもしれません。

頼家の奇跡的な病状快復は、北条氏も予想していなかったのでしょう。

そして、この時、頼家の母である北条政子は何を思っていたのでしょう。



源頼家の墓
(伊豆:修禅寺)


修禅寺指月殿

頼家の冥福を祈って政子が建立した堂といわれています。








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

比企氏の乱

修禅寺


初代執権北条時政

比企能員


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藤原泰衡の首~源頼朝の奥州征伐~


奥州藤原氏の最後の当主となった藤原泰衡。

その最期は哀れなものでした。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

源頼朝の征伐軍が平泉に逼ってくると、泰衡は平泉館を焼き、郎党の河田次郎の本拠・比内郡贄柵に逃げ込みます。

しかし、1189年(文治5年)9月3日、河田次郎に裏切られ殺害されてしまいました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

9月6日、河田次郎は、泰衡の首を頼朝のもとへ届けます。

河田次郎は褒美に預かれると思っていたのでしょうが・・・

頼朝は、梶原景時に命じて河田次郎にこう伝えさせ、直ちに首を刎ねたのだそうです。

「お前のしたことは手柄のようにも思えるが、泰衡の命はすでに掌中にあったもので、他者の力を借りる必要はなかった。

にもかかわらず、代々の恩を忘れて主人の首を刎ねるとは、八虐の罪に値する・・・」


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

そして、泰衡の首は梟首されるのですが・・・

頼朝は、前九年の役で、先祖の源頼義が安倍貞任の首を「釘で打ち付けて晒した」のと同じように、八寸釘で泰衡の首を打ち付け、晒し首にします。

泰衡の首は父祖が眠る中尊寺金色堂に葬られますが、頼朝を憚ってのことか、長い間、泰衡の弟忠衡のものと伝えらてきたようです。

しかし、1950年(昭和25年)の調査で、眉間と後頭に直径1.5センチメートルの小孔が18センチメートルの長さで頭蓋を貫通していることが判明し、忠衡ではなく泰衡のものであることが確認されたのだそうです。

参考までに、忠衡は義経保護を主張して泰衡と対立し、6月26日に誅殺されていました。


中尊寺金色堂


奥州征伐~奥州藤原氏の滅亡~








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奥州平泉

藤原秀衡

源義経最期の地

源義経

歴史めぐり源頼朝

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2021年8月31日火曜日

比企能員の変と比企邸があった妙本寺


比企能員邸址

妙本寺は、比企能員の邸跡に建立された寺院。




比企能員は、武蔵国比企郡を領した豪族。

源頼朝の乳母を務めた比企尼の猶子(甥)。

比企尼は、1160年(永暦元年)3月、頼朝が伊豆国蛭ヶ小島に流されると、忠義を尽くすために夫の比企掃部允とともに京都から武蔵国比企郡へ下り、1180年(治承4年)8月に頼朝が挙兵するまでの約20年の間、援助を続けました。

頼朝は、流人時代に世話になった比企尼を鎌倉に迎え入れますが、妙本寺祖師堂の辺りに比企尼の屋敷があったのだといいます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

1182年(養和2年)、二代将軍となる頼家が誕生すると比企能員は乳母父に就任し、1198年(建久9年)には、頼家の側室となった娘若狭局が一幡を出産します。

能員は将軍の外戚として権勢を強めていきますが、それに危機感をもったのが北条時政北条政子でした。

1203年(建仁3年)7月、頼家が危篤状態となると、頼家を擁する比企能員実朝を将軍にして実権を握りたい北条時政との対立が激化。

8月27日、頼家の病状が悪化する中、日本全体の惣守護職と関東二十八ヶ国の地頭職を頼家の長子一幡に、関西三十八ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの実朝)に譲ることが発表されます。

この措置に反発した能員は、9月2日、若狭局を通じて頼家に時政を追討すべきことを伝えます。

頼家能員を呼んで討伐の許可を与えますが・・・



頼家と能員の密議は、北条政子に聞かれていました。

通報を受けた時政は、先手をうって能員を自邸に誘き出して暗殺。

暗殺を実行したのは、天野遠景仁田忠常

そして、政子の命により北条義時らが比企邸を襲撃したことにより、比企一族は滅亡しました。





☆ ☆ ☆ ☆ ☆


比企一族は、頼家の嫡子一幡の小御所に籠もって戦ったのだといいます。

袖塚には、焼け跡から出てきたという一幡の袖が祀られています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


讃岐局とは、頼家の側室で一幡の母である若狭局のことのようです。

比企能員が暗殺された1203年(建仁3年)9月2日の『吾妻鏡』は、能員の娘のことを「将軍家が妾。若君が母儀也。元は若狭局と号す」と記しているので、比企能員の変のときには讃岐局と呼ばれていたのかもしれません。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『吾妻鏡』によると・・・

1260年(文応元年)10月15日、北条政村の娘が物の怪に祟られて悩乱状態となります。

取り憑かれた娘は、様々なことを口走ったといいます。

修験者がその訳を尋ねると・・・

物の怪が現れます。

物の怪は、1203年(建仁3年)9月2日の比企能員の変で井戸に身を投げた比企能員娘・讃岐局でした。


物の怪は、

死んでから大蛇の姿となり、頭には大角があって、比企ヶ谷の土の中で火炎のような熱さに常に苦しんでいる

と語ります。

話を聞いた人は身の毛のよだつ思いだったといいます。


11月27日、北条政村は娘の邪気を祓うため、一日で法華経を書写し、讃岐局の供養を行います。

導師は、鶴岡八幡宮の別当隆弁でした。

隆弁の説法の最中、政村の娘は、

舌を出し、唇を舐め、足を延ばして身悶えをし、まるで蛇身が現れて隆弁の説法を聴聞していたようだった。

といいます。

そして、隆弁の加持祈祷の後、ぼうぜんとなり、眠るようにして祟りから覚めたということです。

その後、北条政村は、比企ヶ谷に蛇苦止堂を建立したのだと伝えられています。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆


讃岐局は、比企ヶ谷が燃え上がる中、井戸に身を投げたのだと伝えられています。

その井戸が蛇苦止明神の前にある「蛇苦止ノ井」(蛇形井)。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


仙覚律師は『万葉集』の研究に大きな功績を残した僧。

比企氏の出身とする説があります。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



竹御所は、源頼朝と若狭局の娘。

1202年(建仁2年)の誕生。

翌年の比企能員の変後は、北条政子の庇護を受けて育てられ、政子亡き後は政子の後継者として御家人からの尊崇を集め、四代将軍藤原(九条)頼経と結婚しましたが・・・

1234年(天福2年)7月27日、難産のため命を落としました。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆


室町時代に、佐竹与義主従13名が自刃した場所。

自刃する際、火がかけられたため、住職の日行は、日蓮の描いた曼荼羅を持ち出し、蛇苦止明神井戸に隠そうとしたところ、蛇が現れ、空には雲が起こって大雨を降らせ、火を消したのだと伝えられています。





比企尼

比企能員


比企能員の暗殺・比企氏滅亡


妙本寺







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鎌倉幕府裏鬼門の守護神:夷神~本覚寺~




本覚寺夷堂は、源頼朝御所の鬼門にあたる方向の鎮守として夷神を祀ったのがその始まり。

夷三郎社と呼ばれ、現在の仁王門の前辺りにあったのだといわれています。





源頼朝の鎌倉幕府と鬼門を守護・鎮護した神仏







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鶴岡八幡宮例大祭
9月14日~16日


鶴岡八幡宮神幸祭

流鏑馬

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