別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2021年8月28日土曜日

湯河原・真鶴で源頼朝




相模国土肥郷(現在の湯河原町・真鶴町)は、土肥実平が本領とした地。

1180年(治承4年)に、伊豆国で源氏再興の挙兵をし、相模国へ進軍した源頼朝の伝説が数多く残されています。


(湯河原)

五所神社は、石橋山の戦いに臨む頼朝が戦勝祈願を行ったという社。


(湯河原)

五郎神社は、石橋山の戦いに敗れて土肥郷に逃れた頼朝が陣を張ったという鍛冶屋に鎮座する社。


(湯河原)

しとどの窟は、石橋山の戦いに敗れた頼朝が隠れたという岩窟。

頼朝が清水寺から下された聖観音像の伝説が残されています。


(湯河原)

石橋山の戦い後、頼朝を手引きしたのは土肥郷の土肥実平でした。


箱根神社

頼朝は、一時、箱根権現(箱根神社)に身を寄せますが、土肥郷へと下ります。


(湯河原)

城願寺は、土肥実平の菩提寺。

城願寺からJR湯河原駅周辺にいたる地は、土肥実平館があったとされています。


(城願寺)

伝説によると・・・

真鶴から船で安房へ渡ることにした頼朝。

頼朝主従は八騎。

しかし、「八」という数字は源氏にとって不吉な数字だったので、土肥遠平が下船したのだといいます。

城願寺七騎堂には、安達盛長岡崎義実・新開忠氏・源頼朝・土屋宗遠・土肥実平田代信綱の像が祀られています。



鵐窟
(真鶴)

鵐窟(しとどのいわや)は、頼朝主従七騎が隠れ潜んだ岩屋と伝えられています。


頼朝観音

鵐窟の横には観音像が祀られています。

船出の際には、観音菩薩が船頭をとなって助けてくれたという伝説も残されています。


貴船神社
(真鶴)

貴船神社では必勝を祈願した護摩が焚かれたのだそうです。

参道石段には頼朝の腰掛石が残されています。


(真鶴)

児子神社には、土肥遠平の子万寿の悲しい伝説が残されています。


真鶴岩海岸
岩海岸

岩海岸は、頼朝が安房に向けて船出した浜と伝わっています。



土肥祭:源頼朝旗挙げ行列

貴船祭







☆ ☆ ☆ ☆ ☆

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源頼朝七騎落ちの伝説


城願寺七騎堂
(湯河原町・城願寺七騎堂)


1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに大敗した源頼朝

一時、箱根権現に身を寄せますが、土肥郷へ下ることに。

伝説によると・・・

頼朝に従っていたのは、安達盛長岡崎義実・新開忠氏・土屋宗遠・土肥実平田代信綱・土肥遠平。

8月28日、頼朝は真鶴岬から安房国へと渡るのですが・・・

「八騎という数は不吉」という理由から遠平(実平の子)は下船させられたのだと伝えられています。

※新開忠氏も実平の子らしい・・・


真鶴岩海岸
(真鶴町岩海岸)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

何故、八騎が不吉なのか・・・

1159年(平治元年)、平清盛に敗れた源義朝は八騎で落ちたのだといいます。

『平治物語』によると、義朝に従っていたのは、長男義平、次男朝長、三男頼朝、佐渡(源)重成、平賀(源)義宣、鎌田政家、金王丸。

その後、義朝は尾張国野間長田忠致に裏切られ殺害されました


源義朝終焉の地


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~遠平下船の伝説その2~

頼朝が船出したというい岩海岸には、こんな伝説も。

一行が安房に向けて船出しようとしたとき、土肥遠平は「子の万寿に会ってから・・・」と父実平に頼みました。

万寿の母は伊東祐親の次女・万劫。

実平は敵将祐親の孫を呼んだ遠平を下船させたのだといいます。

その後、遠平は和田義盛の用意した船で頼朝一行を追いますが、子の万寿には会う事はできなかったそうです。

誰もいない浜に駆けつけた万寿は・・・

父方は源氏に、母方は平氏に別れてしまったことを嘆き、海に身を投げたのだといいます。


真鶴町児子神社
(真鶴町)

万寿は、村人によって児子神社に祀られたのだといいます。


瀧門寺五層塔
(真鶴町)

瀧門寺の五層塔は、万寿を埋葬した塔だと伝えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

参考までに・・・

『吾妻鏡』によると、土肥遠平は、秋戸郷北条政子に頼朝が安房に渡ったという重要な報告をする役目を果たしています。


(熱海市)









☆ ☆ ☆ ☆ ☆

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2021年8月26日木曜日

藤原泰衡が源頼朝に出した手紙~奥州征伐~


藤原泰衡は奥州藤原氏の第四代の当主。

藤原秀衡の次男。

次男ですが嫡男として育てられたようです。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆

1187年(文治3年)10月29日、父の秀衡が亡くなります。

秀衡は、平泉に逃れていた源義経を主君として、源頼朝の攻撃に供えるように言い残したのだと伝えられていますが・・・

泰衡は、頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の衣川館を攻め、自刃に追い込みます。

泰衡は、義経の首を頼朝に差し出せば、頼朝との「和平が可能」と考えていたのかもしれませんが・・・


高館義経堂
(衣川館跡)

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

1189年(文治5年)7月19日、頼朝は、泰衡を征伐するため、畠山重忠を先陣に総勢28万4千騎の大軍で鎌倉を出発。

8月11日、泰衡の異母兄国衡が守る陸奥国伊達郡阿津賀志山が頼朝軍に破られると、その報を受けた泰衡は、平泉館を焼き払い逃亡してしまいます。


平泉館

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

8月26日、泰衡は、頼朝に手紙を出しました。

その内容は・・・

「義経のことは、父秀衡が保護していたもので、私は全くその事の始まりがわかりません。

父の死後、ご命令のとおり義経を討ちました。

これは勲功というべきではないでしょうか。

そうであるのに、罪のないにも拘わらず、征伐されるというのはどういうことでしょう。

そのため、先祖代々の在所を去って、山林をさまよい、難儀しております。

陸奥・出羽の両国は、すでに沙汰されているのですから、泰衡についてはお許し頂き、御家人に列して頂きたいと思います。

さもなくば、死罪を減じていただき遠流にしてください。

もし御慈悲によって返答下さるのならば、比内郡辺りに置いてください。

その是非によっては帰還して参じたいと思います」

という助命嘆願でした。


頼朝は、これを受け容れず、比内郡内の探索を命じています。


そして、9月3日、泰衡は、比内郡贄柵で、郎党の河田次郎に殺され、清衡以来四代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡しました。

泰衡の首を持ってきた河田次郎は・・・

「先祖代々の恩を忘れて主人の首を刎ねるとは、八虐の罪にあたる」

として、斬罪に処せられています。


中尊寺

泰衡の首は、父祖の眠る中尊寺金色堂に納められました。

中尊寺の大池の「中尊寺ハス」は、泰衡の首桶から発見されたハスの種が発芽したものです。






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