藤原泰衡は奥州藤原氏の第四代の当主。
藤原秀衡の次男。
次男ですが嫡男として育てられたようです。
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1187年(文治3年)10月29日、父の秀衡が亡くなります。
秀衡は、平泉に逃れていた源義経を主君として、源頼朝の攻撃に供えるように言い残したのだと伝えられていますが・・・
泰衡は、頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の衣川館を攻め、自刃に追い込みます。
泰衡は、義経の首を頼朝に差し出せば、頼朝との「和平が可能」と考えていたのかもしれませんが・・・
(衣川館跡)
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1189年(文治5年)7月19日、頼朝は、泰衡を征伐するため、畠山重忠を先陣に総勢28万4千騎の大軍で鎌倉を出発。
8月11日、泰衡の異母兄国衡が守る陸奥国伊達郡阿津賀志山が頼朝軍に破られると、その報を受けた泰衡は、平泉館を焼き払い逃亡してしまいます。
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8月26日、泰衡は、頼朝に手紙を出しました。
その内容は・・・
「義経のことは、父秀衡が保護していたもので、私は全くその事の始まりがわかりません。
父の死後、ご命令のとおり義経を討ちました。
これは勲功というべきではないでしょうか。
そうであるのに、罪のないにも拘わらず、征伐されるというのはどういうことでしょう。
そのため、先祖代々の在所を去って、山林をさまよい、難儀しております。
陸奥・出羽の両国は、すでに沙汰されているのですから、泰衡についてはお許し頂き、御家人に列して頂きたいと思います。
さもなくば、死罪を減じていただき遠流にしてください。
もし御慈悲によって返答下さるのならば、比内郡辺りに置いてください。
その是非によっては帰還して参じたいと思います」
という助命嘆願でした。
頼朝は、これを受け容れず、比内郡内の探索を命じています。
そして、9月3日、泰衡は、比内郡贄柵で、郎党の河田次郎に殺され、清衡以来四代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡しました。
泰衡の首を持ってきた河田次郎は・・・
「先祖代々の恩を忘れて主人の首を刎ねるとは、八虐の罪にあたる」
として、斬罪に処せられています。
泰衡の首は、父祖の眠る中尊寺金色堂に納められました。
中尊寺の大池の「中尊寺ハス」は、泰衡の首桶から発見されたハスの種が発芽したものです。
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