1007年(寛弘4年)8月11日、
藤原道長は自ら書写した経を吉野の金峯山(山上の蔵王堂)に埋納しています。
当時、道長は様々な病に苦しんでいたようですので、厄除とも考えられますが・・・
999年(長保元年)に12歳で
一条天皇の女御として入内して中宮となった娘の
彰子は20歳になっていました。
彰子の皇子出産を願って?
一条天皇には彰子が入内した年に
藤原定子が生んだ第一皇子の
敦康親王がいましたが、定子が崩御した後は
彰子が養母となって育てていました。
敦康親王は彰子に愛情をもって養育され、賢い少年に成長します。
道長も後見役となり、
源倫子(彰子の母)も育児に関わっていたようですが、彰子が皇子を産むことができなかった場合に備えて奉仕していたようです。
敦康親王を簡単に東宮(皇太子)にするわけにはいかない道長は、彰子の皇子出産を願って金峯山参詣(御嶽詣)を行ったのかもしれません。
ただ・・・藤原道長が埋納した「金銅藤原道長経筒」に記された願文には・・・
📎金銅藤原道長経筒と道長の願い
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~金峯山は弥勒の浄土~
金峯山は、
吉野山から山上ヶ岳に至る地。
道長の時代は、末法思想が流行しはじめていた時代でした。
末法思想は、仏教の教えが廃れ、救われることのない世がくるというもの。
そういう思想の中で広がったのが、弥勒菩薩が現れて救ってくれるという弥勒信仰。
平安時代、金峯山は弥勒の浄土とされていたようです。
また、金峯山寺の本尊・蔵王権現は、釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三尊が合体したものとされています。
道長は弥勒菩薩を信仰していたといわれ、弥勒菩薩を本尊とする
園城寺(三井寺)の
金堂には、道長が奉納したと伝えられる弥勒菩薩像も安置されています。
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~道長の金峯山参詣~
道長は寛弘4年閏5月から室町の源高雅の邸宅で御嶽精進を始めます。
御嶽精進とは、金峯山参詣の前に50日から100日の間、身を清めること。
この間、巨大な磨崖仏(弥勒菩薩)を本尊とする笠置寺や
祇園社・
賀茂社にも参詣しているようです。
そして、8月2日、長男・
頼通や
源俊賢らとともに金峯山を参拝するため京都を出発。
⽯清⽔⼋幡宮から
興福寺、⼤安寺を経て吉野に⼊り、8⽉10⽇に⾦峯⼭上に到着。
8月11日には法要を行い、998年(長徳4年)に金峯山に奉納するため自らが書写した「法華経」・「無量義経」・「阿弥陀経」・「弥勒経」、1007年(寛弘4年)に書写した「阿弥陀経」・「弥勒経」を山上ヶ岳の蔵王堂(現在の大峯山寺)に埋納しました。
道長は⻑徳4年に⾦峯⼭参詣を計画ししていたようですが、当時は伝染病が流⾏していたため、やむを得ず中⽌したのだといいます。
⻑徳4年に書写したものは、その時のもののようです。
道長は経筒に経巻を収めて大峯山寺付近の経塚に埋納したのだといいます。
金峯神社蔵の「金銅藤原道長経筒」は、1952年(昭和27年)、国宝に指定され、京都国立博物館に寄託されています。
📎金銅藤原道長経筒と道長の願い
金峯山寺は、修験道の開祖・役行者(役小角)が、山上ヶ岳と吉野山に蔵王権現を祀ったことに始まります。
現在は山上ヶ岳(現在の大峯山寺)と吉野山(現在の金峯山寺)は別個の寺院になっていますが、近世までは「山上の蔵王堂」・「山下の蔵王堂」と呼ばれ、金峯山寺とは本来2つの蔵王堂とその関連施設の総称でした。
2024年(令和6年)8月27日、
金峯神社と
金峯山寺が所有する「金峯山経塚出土紺紙金字経」が国宝に指定されています。
📎国宝に指定された藤原道長直筆の経巻~吉野山:金峯神社・金峯山寺~
吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ)は、
清少納言の『枕草子』に「みこもりの神」として登場する社。
金峯神社と
金峯山寺の中間あたりに鎮座します。
守明神とも呼ばれ、「みくまり」が訛って「みこもり」となり、子授けの神としての信仰を集めました。
道長の『御堂関白記』には子守明神として登場。
御嶽詣を行った道長も
彰子の男児出産を祈願したのかも。
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~道長暗殺計画~
藤原実資の『小右記』によると、
藤原伊周・
隆家兄弟が御嶽詣に出発した道長の暗殺を計画していたという噂が流れていたのだといいます。
平致頼に暗殺を命じたという噂だったようですが、8月14日に
道長は無事帰京しています。
📎失意のうちに死去した藤原伊周~道長の暗殺計画・呪詛そして最期~
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~敦成親王の誕生~
御嶽詣の翌年、
彰子の懐妊が判明。
9月11日、彰子は
土御門殿で敦成親王(
後一条天皇)を出産しています。
人々は「金峯山の御霊験」と噂したのだとか。
そして、1011年(寛弘8年)、
一条天皇が
三条天皇に譲位。
一条天皇は
定子が産んだ第一皇子の
敦康親王を東宮(皇太子)にと望んでいましたが・・・
藤原行成に
彰子が産んだ第二皇子の敦成親王を立てるよう進言されて諦めたのだといわれています。
道長にとっては思いどおりの結果ですが、第一皇子が皇太子になれないのは異例のこと。
彰子は、
敦康親王を無視して敦成親王を皇太子にしようとする道長に対して激怒していたのだと伝えられています。
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