『吾妻鏡』によると・・・
鶴岡八幡宮で行われた
上巳の節句の法要には、
源頼朝も出席していました。
1189年(文治5年)3月3日、
頼朝参列。
舞楽、
流鏑馬、相撲などが奉納される。
1190年(文治6年)3月3日、
頼朝参列。
1191年(建久2年)3月3日、
箱根権現の稚児が舞を奉納。
臨時祭では、飾り馬が十頭、
流鏑馬が十六騎手、相撲が十六番を奉納しました。
頼朝をはじめ、安田義資・山名義範・
北条義時・
小山朝政・
小山朝光・
三浦義澄・
和田義盛・
佐原義連・伊藤家光・
葛西清重などが参列。
ただ、3月4日未明、鎌倉は
大火に遭い、
鶴岡八幡宮も
頼朝の御所も焼失しています。
1192年(建久3年)3月3日、
頼朝と
頼家が参列。
いつもどおり舞楽がされる。
1193年(建久4年)3月3日、
頼朝参列。
舞楽はいつもどおりだが、2月7日から練習してきた別当の
円暁と供僧らの弟子・御家人の子らが舞っている。
1194年(建久5年)3月3日、
頼朝参列。
鶴岡八幡宮の
舞楽面は重要文化財。
残されている5面の内、陵王、貴徳鯉口、貴徳番子、散手の4面は、1195年(建久6年)に
東大寺大仏殿の
落慶供養に参列した
源頼朝が、鎮守八幡宮(
手向山八幡宮)から贈られたものと伝えられています。
1187年(文治3年)8月15日、
源頼朝は放生会の後に
流鏑馬を奉納。
この放生会が現在の
例大祭となっています。
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3月3日には・・・
1174年(承安4年)3月3日、遮那王(
源義経)が
鞍馬寺を出奔、
奥州平泉の
藤原秀衡のもとへ(『平治物語』)。
1207年(承元元年)3月3日を最後に、『吾妻鏡』から
足立遠元の記事が消える。
1218年(建保6年)3月3日、
八田知家が死去。
1242年(仁治3年)3月3日、
北条泰時は、僧徒の帯刀を禁じ、刀剣を没収して
大仏造立のために奉げることを決定。
1582年(天正10年)3月3日、織田信長・
徳川家康連合軍の
甲州征伐で、武田勝頼が
新府城を焼き払う。
1860年(安政7年)3月3日、
江戸城の桜田門の近くで井伊直弼が水戸藩浪士らに暗殺された(桜田門外の変)。
1927年3月3日の雛まつりには、
明治神宮外苑の日本青年館で、
渋沢栄一も出席した
青い目の人形の歓迎式が盛大に行われた。
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「雛まつり」は、3月上旬の巳の日に、「邪気祓い」のために行われていた
「上巳の節句」がその起源。
紫式部の
『源氏物語』では、
光源氏が蟄居していた
須磨の浜で上巳の禊を行っています。
清少納言の『枕草子』や『源氏物語』には、「雛」(ひいな)という紙で折った小さな人形が出てきますが、この雛と上巳の節句に用いられた「人形」が結びついたものが雛人形といわれています。