別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2024年2月25日日曜日

紫式部の時代の皇位継承は冷泉系と円融系で交互に行われていた。


紫式部の時代、皇統が冷泉系と円融系の2つが交互に皇位継承を行っていました。

この両統迭立の状況は、冷泉天皇が即位する前から精神的な病気だったことから始まります。


冷泉天皇は、967年(康保4年)に即位しますが、病気のため皇太子の人選を急ぐことになります。

ただ、この時、冷泉天皇には皇子がいなかったため、弟の守平親王が皇太子に立てられます。

その後、冷泉天皇に皇子が誕生(師貞親王)。


969年(安和2年)、冷泉天皇は守平親王に譲位し、円融天皇が誕生します。

しかし、冷泉天皇は譲位するに当たって師貞親王を皇太子とするよう命じていました。


984年(永観2年)、円融天皇は師貞親王に譲位し、花山天皇が誕生。

皇太子には、藤原詮子が生んだ懐仁親王が立てられます。


986年(寛和2年)、花山天皇の出家(寛和の変)に伴なって懐仁親王が即位して一条天皇が誕生(7歳)。

しかし、7歳の一条天皇に皇子がいるわけがなく、花山天皇にも皇子がいませんでした。

そのため、冷泉天皇の皇子・居貞親王(花山天皇の弟、のちの三条天皇)が皇太子となり、両統迭立の状況となっています。




平安時代の即位の礼は、原則として平安宮朝堂院の大極殿で行われていました。

しかし、冷泉天皇は病気だったため内裏の紫宸殿で即位しています。




紫式部・源氏物語・光源氏ゆかりの地めぐり~光る君へ~









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


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源頼朝と雛まつりの起源となった上巳の節句~鶴岡八幡宮では舞楽や流鏑馬が~


『吾妻鏡』によると・・・

鶴岡八幡宮で行われた上巳の節句の法要には、源頼朝も出席していました。


1189年(文治5年)3月3日、頼朝参列。

舞楽、流鏑馬、相撲などが奉納される。


1190年(文治6年)3月3日、頼朝参列。


1191年(建久2年)3月3日、箱根権現の稚児が舞を奉納。

臨時祭では、飾り馬が十頭、流鏑馬が十六騎手、相撲が十六番を奉納しました。

頼朝をはじめ、安田義資・山名義範・北条義時小山朝政小山朝光三浦義澄和田義盛佐原義連・伊藤家光・葛西清重などが参列。

ただ、3月4日未明、鎌倉は大火に遭い、鶴岡八幡宮頼朝の御所も焼失しています。


1192年(建久3年)3月3日、頼朝頼家が参列。

いつもどおり舞楽がされる。


1193年(建久4年)3月3日、頼朝参列。

舞楽はいつもどおりだが、2月7日から練習してきた別当の円暁と供僧らの弟子・御家人の子らが舞っている。


1194年(建久5年)3月3日、頼朝参列。



舞楽面

鶴岡八幡宮舞楽面は重要文化財。

残されている5面の内、陵王、貴徳鯉口、貴徳番子、散手の4面は、1195年(建久6年)に東大寺大仏殿落慶供養に参列した源頼朝が、鎮守八幡宮(手向山八幡宮)から贈られたものと伝えられています。


小笠原流流鏑馬


1187年(文治3年)8月15日、源頼朝は放生会の後に流鏑馬を奉納。

この放生会が現在の例大祭となっています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

3月3日には・・・

1174年(承安4年)3月3日、遮那王(源義経)が鞍馬寺を出奔、奥州平泉藤原秀衡のもとへ(『平治物語』)。

1207年(承元元年)3月3日を最後に、『吾妻鏡』から足立遠元の記事が消える。

1218年(建保6年)3月3日、八田知家が死去。

1242年(仁治3年)3月3日、北条泰時は、僧徒の帯刀を禁じ、刀剣を没収して大仏造立のために奉げることを決定。

1582年(天正10年)3月3日、織田信長・徳川家康連合軍の甲州征伐で、武田勝頼が新府城を焼き払う。

1860年(安政7年)3月3日、江戸城の桜田門の近くで井伊直弼が水戸藩浪士らに暗殺された(桜田門外の変)。

1927年3月3日の雛まつりには、明治神宮外苑の日本青年館で、渋沢栄一も出席した青い目の人形の歓迎式が盛大に行われた。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


「雛まつり」は、3月上旬の巳の日に、「邪気祓い」のために行われていた「上巳の節句」がその起源。

紫式部『源氏物語』では、光源氏が蟄居していた須磨の浜で上巳の禊を行っています。

清少納言の『枕草子』や『源氏物語』には、「雛」(ひいな)という紙で折った小さな人形が出てきますが、この雛と上巳の節句に用いられた「人形」が結びついたものが雛人形といわれています。



上巳の節句









紫式部

鎌倉殿の13人

青天を衝け:渋沢栄一


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2024年2月24日土曜日

高階貴子は伊勢斎宮の恬子内親王と在原業平の子孫?


藤原道隆の正妻・高階貴子の曾祖父・高階師尚は、伊勢斎宮の恬子内親王と在原業平の密通によって誕生したという噂があります。

貴子の孫・敦康親王藤原定子の子)は、そのせいで東宮(皇太子)になれなかったのだという噂も。

藤原行成一条天皇に高階氏は伊勢神宮に憚るところがあると進言したのだとか。


行成の『権記』には、

「高氏ノ先ハ斎宮ノ事ニ依リ其ノ後胤為ル者ハ皆以テ和セザル也」

とあるようです。

ただ、後世の加筆ではないかという説もあるようです。




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2024年2月23日金曜日

安倍晴明:閻魔大王から授かった五芒星パワー~真如堂の不動明王伝説~


真如堂の本尊・阿弥陀如来の脇侍の不動明王は、平安時代に活躍した陰陽師・安倍晴明の念持仏。

晴明が横死したときに閻魔大王に頼んで蘇生させたという伝説の像。




不慮の死で閻魔大王の裁判を受けることとなった安倍晴明

そこへ不動明王が現れて晴明の命乞いをします。

その願いを聞き届けた閻魔大王は晴明に

「天寿を全うでき、死後にこの印を持ってきた者は必ず極楽往生できる五行之印(決定往生の秘印)」

を授けます。

蘇った晴明は、85歳まで生き、多くの人々に印を施したのだとか。




真如堂は、984年(永観2年)、藤原詮子の離宮に比叡山常行堂にあった阿弥陀如来を安置したことに始まります。

阿弥陀如来は慈覚大師円仁の作で「うなづきの弥陀」と呼ばれています。




晴明神社は、晴明の死後、一条天皇が晴明の偉業を讃えるために創建。




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