源頼朝が創った武家政権の都「鎌倉」の歴史を中心に、関係地の伝説・文化や自然・寺社の花などの情報をお伝えします。
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別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』
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2024年1月4日木曜日
紫式部の邸宅址の碑~蘆山寺~
紫式部邸址碑
(蘆山寺)
幼い頃に母(
藤原為信女
)を亡くした
紫式部
。
曾祖父の藤原兼輔が建てた旧家で父
藤原為時
に育てられ、
藤原宣孝
との婚姻生活を送り、一人娘・
賢子
(大弐三位)を育てました。
ただ、宣孝との結婚は、宣孝が通ってくる
「通い婚」
。
浮気性の
宣孝
が来なくなり、生まれたばかりの
賢子
と寂しい思いをしたこともあったようです。
宣孝の死後に書き始めた
『源氏物語』
を執筆したのもこの地でした。
蘆山寺
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2024年1月3日水曜日
紫式部が生まれた紫野~雲林院と真珠庵~
雲林院
雲林院
は淳和天皇(在位・823ー833)の離宮・紫野院として造営されたのが始まり。
現在は
大徳寺
の境外塔頭となっていますが、大徳寺は衰退してしまった雲林院の敷地内に建てられた寺です。
雲林院のある地は「紫野」。
『源氏物語』
の作者・
紫式部
は紫野で生まれ育ったのだとか。
真珠庵
かつては、
雲林院
の敷地だった
大徳寺
の塔頭
真珠庵
には「紫式部産湯の井」があるそうです。
大徳寺
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2024年1月2日火曜日
位階と袍(上着)の色~紫式部:光る君へ~
官人には一位から九位までの位階があり、各位は上下に分割されていました。
貴族と呼ばれるのは五位以上の者。
そして、「位袍」(いほう)という制度があって、正装の袍(上着)は位階によって色分けされていました。
また、天皇・皇族などの袍(上着)の色は「禁色」(きんじき)と呼ばれ、臣下の者が用いることは禁じられていました。
紫式部
の時代、臣下で一番高位の人は濃い紫。
位階が下がるにしたがって薄紫や赤の袍となり、六位以下になると青や緑だったようです。
『源氏物語』
~少女の巻~では、
光源氏
の息子・
夕霧
が元服して
大学寮
に入ることとなった際、光源氏はわざと低い官位(六位)を与えて学問に励ませています。
夕霧
の袍の色は浅葱色だったようです。
紫の
袍
藤原道長
や
光源氏
は、臣下の最上位なので紫。
御五十日の祝いの宵、
若宮に餅を供する道長
(紫式部日記絵巻)
1008年(寛弘5年)9月11日、
紫式部
が仕えていた中宮・
藤原彰子
が
一条天皇
の第二皇子・敦成親王(のちの
後一条天皇
)を生みます。
『紫式部日記』によると・・・
11月1日、
土御門殿
では
藤原道長
主催の「五十日の祝い」が行われました。
そのとき少輔の乳母(
藤原豊子
の娘)は「禁色」の着用を許されています。
伝源頼朝像
(神護寺)
参考までに・・・
神護寺
の源頼朝像の袍は黒。
源頼朝
の最終位階は正二位。
紫式部
の時代だと紫になるのかもしれませんが、摂関の時代が終わると、上位の者の色は黒に統一されていったようです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2024年1月1日月曜日
平安時代の宮中に仕える女房の装束「唐衣裳」(十二単)
宮中に仕える女房(女官)の正装は、袴に単(ひとえ)、重ね袿に裳と唐衣を着けた「唐衣裳」(からぎぬも)と呼ばれる装束。
袴(はかま)は、下衣として着用するもの。
単(ひとえ)は、単は装束の下に着けた肌着。
桂(うちき)は、単の上に羽織る上着で数枚重ねて着用。
裳(も)は、袿の上に腰部から下の後方だけにまとうもの。
唐衣(からぎぬ)は、上半身を羽織るもの。
平安時代中期には、重ね袿が華美となり、20枚以上重ねることもあったそうです。
「唐衣裳」は、のちに十二単と呼ばれますが、「十二」は衣の数ではなく「たくさん」という意味があったようです。
紫式部像
紫式部
が越前国に下向したことを記念して整備された
紫式部公園
には、十二単衣をまとった金色の
紫式部像
が建てられています。
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