別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2023年9月26日火曜日

逢坂の関~源氏物語ゆかりの関所~




逢坂の関(おうさかのせき)は、山城国と近江国の国境に置かれた関所。

赤染衛門清少納言和泉式部藤原道綱の母などが逢坂の関を通って石山寺を参拝していたようです。

紫式部『源氏物語』では、石山寺参詣の途中の光源氏が任期を終えて妻の空蝉ととも帰京する常陸介(元伊予介)一行と出逢っています。

ただ関があった場所の詳細は不明らしい。



紫式部は父の藤原為時の越前国赴任に同行しました。

京を出発した一行は逢坂の関を越えて打出浜から船出したのだそうです。










☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


紫式部と越前国

源氏物語

源氏物語 須磨・明石


宇治十帖


藤原道長

藤原彰子



よりともジャパン.com


2023年9月24日日曜日

光源氏のモデルの一人・在原行平の伝説~源氏物語・須磨~




在原行平は、光源氏のモデルの一人とされる平安時代前期の公卿。

松風村雨堂は、須磨に蟄居していた行平が都に帰った後、愛人だった松風と村雨が行平の無事を祈って建てた庵の跡。



(須磨離宮公園)


行平は、しばしば裏山で月見をしていたため、後世、裏山は月見山と呼ばれるようになったのだという。

須磨離宮公園は、月見山にあった皇室の別荘・武庫離宮の跡地で、園内には在原行平の月見の松碑が建てられている。




行平が信仰した多井畑厄除八幡宮の西にある二基の五輪塔は、在原行平の愛人だった松風と村雨の墓




紫式部
(大津市:石山寺)

石山寺源氏の間は、紫式部『源氏物語』を書き始めたという所。

蟄居を余儀なくされた在原行平の須磨での日々を重ねあわせながら、「須磨」・「明石」の両巻から書き始めたのだという。









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


紫式部と越前国

源氏物語

源氏物語 須磨・明石


宇治十帖


藤原道長

藤原彰子



よりともジャパン.com


2023年9月22日金曜日

石山寺の源氏の間~紫式部が『源氏物語』を書き始めた部屋~


紫式部


石山寺の本堂にある「源氏の間」は、紫式部『源氏物語』を書き始めた部屋。

中秋の名月が琵琶湖に映る美しい景色を見た紫式部

まずは、光源氏のモデルの一人・在原行平の須磨での日々を重ねあわせながら、「須磨」・「明石」の両巻から書き始めたのだとか。



石山寺東大門









☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


紫式部と越前国

源氏物語

源氏物語 須磨・明石


宇治十帖


藤原道長

藤原彰子



よりともジャパン.com


2023年9月21日木曜日

長安寺~藤原道長一族が参った関寺の霊跡~




長安寺は、関寺の霊跡にある寺。

長和年間(1012-1017)、荒廃していた関寺の復興を恵心僧都源信が発願し、弟子の延鏡が遂行。

再興の資材運搬は、清水寺から遣わされた一頭の牛が活躍。

その牛と結縁するために藤原道長源倫子藤原頼通・藤原教通が参ったのだという。





境内にある巨大な石塔は、牛が葬られた地に藤原頼通が建てたと伝えられ、牛塔と呼ばれている。












☆ ☆ ☆ ☆ ☆


紫式部


紫式部と越前国

源氏物語

源氏物語 須磨・明石


宇治十帖


藤原道長

藤原彰子



よりともジャパン.com


大津城~石田三成が生き曝しにされた城~




大津城は、1586年(天正14年)、羽柴秀吉が明智光秀の坂本城を廃城とし、浅野長政に築かせた城。

その後、増田長盛→新庄直頼→京極高次と城主が変わり、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いを迎える。

関ヶ原の戦いで京極高次は東軍に与して籠城。

15000で攻めかかる西軍を7日間も釘付けにしたのだという。

戦後、徳川家康が入城。

西軍の将・石田三成は田中吉政に捕縛された後、大津城の家康のもとに連行され、生き曝しにされたのだと伝えられる。










☆ ☆ ☆ ☆ ☆


小田原城


小田原征伐


関ヶ原の戦い


よりともジャパン.com