別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
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2012年1月18日水曜日

鎌倉十三仏霊場

人が亡くなると、十三の仏様が姿を変えた十三王によって裁決されるとされています。

鎌倉にも十三仏の霊場が定められています。


一番:明王院
初七日は不動明王の化身「秦広王」に裁決されます。

二番:浄妙寺
二七日(14日目)は、釈迦如来の化身「初江王」の裁決です。

三番:本覚寺
三七日(21日目)は、文殊菩薩の化身「宋帝王」の裁決です。

四番:壽福寺
四七日(28日目)は、普賢菩薩の化身「五官王」の裁決です。

五番:圓應寺
五七日(35日目)は、地蔵菩薩の化身「閻魔王」の裁決です。

「閻魔王」の裁決の結果、天上・人間・修羅・畜生・餓鬼・地獄の六道のうち、どこに生まれ変われるかが決定されます。

六番:浄智寺
六七日(42日目)は、弥勒菩薩の化身「変成王」の裁決です。

七番:海蔵寺
七七日(49日目)は、薬師如来の化身「泰山王」の裁決です。

八番:報国寺
百ヶ日(100日目)は、観世音菩薩の化身「平等王」の裁決です。

九番:浄光明寺
一周忌は、勢至菩薩の化身「都市王」の裁決です。

十番:来迎寺(西御門)
三回忌は、阿弥陀如来の化身「五道輪廻王」の裁決です。

十一番:覚園寺
七回忌は、阿しゅく如来の化身「蓮上王」の裁決です。

十二番:極楽寺
十三回忌は、大日如来の化身「抜苦王」の裁決です。

十三番:虚空蔵堂
三十三回忌は、虚空蔵菩薩の化身「慈恩王」の裁決です。




 鎌倉手帳


2011年7月24日日曜日

伝説の観音さまと四万六千日詣り

古くは「朝詣り」とも呼ばれた「四万六千日詣り」

8月10日にお詣りすると4万6千日の間お詣りしたのと同じご利益があると伝えられています。

かつて、三浦半島の人たちは、提灯を下げ、名越の山を越えて、杉本観音長谷観音田代観音を巡り、最後に逗子の岩殿寺を巡って帰宅したといいます。


杉本観音
鎌倉最古の寺といわれる杉本寺は、行基によって創建されました。
「大倉観音」「下馬観音」「覆面観音」とも呼ばれています。
板東観音巡礼一番札所。
https://www.yoritomo-japan.com/page042sugimoto.htm


『吾妻鏡』には・・・

1189年(文治5年)11月23日夜、大倉観音堂(杉本寺)が火事に遭います。
別当の浄台房は、観音像を運び出すため火の中に入っていきました。

誰もが死んでしまうだろうと思っていましたが、観音像を運び出すことに成功したといいます。

法衣は焦げていましたが、身体はなんともなかったそうです。
観音さまは火にも焼かれないということでしょうか。

といったことが記されています。


一方、『杉本寺縁起』では・・・

火事に遭った観音さまは、一人で杉の木の下に避難したと伝えています。
そして、人々は「杉本観音」と呼ぶようになったのだと・・・。


その他、寺の前を馬に乗ったまま通ると落馬するので「下馬観音」とも呼ばれていたといいます。

そこで、蘭渓道隆が祈願し、袈裟で観音さまを覆ったところ落馬がなくなったことから、「覆面観音」とも呼ばれていたそうです。



長谷観音
木造では日本最大級の十一面観音像です。
板東観音巡礼四番札所。
https://www.yoritomo-japan.com/page136hasedera.htm


721年(養老5年)、諸国を巡っていた徳道は、大和国で巨大なクスノキを発見します。

徳道は、このクスノキで二体の観音像を造らせました。

一体は大和国の長谷寺に安置され、もう一体は「有縁な地に行って、衆生済度を施したまえ」ということで、行基によって大阪の海から流されました。

それから歳月が流れ、16年目の736年(天平8年)になって三浦半島の長井浜に漂着したといいます。

そして、現在の地に観音堂が設けられ、新長谷寺と称されたと伝えられています。

長谷寺の十一面観音像は、「長谷寺式」とも呼ばれ、右手に錫杖を左手に蓮華を持った独特な像です。



田代観音
安養院は、比企ヶ谷にあった田代観音堂が移されたことから、
「田代寺」と呼ばれています。
板東観音巡礼三番札所。
https://www.yoritomo-japan.com/page126anyoin.htm


本尊の千手観音は、田代信綱の観音像を胎内に納めた像であることから、「田代観音」と呼ばれています。

田代信綱の観音像は・・・、

986年(寛和2年)、僧奝然(ちょうねん)が宋に渡ったときに手に入れたものなのだそうです。

そして、歴代天皇に信仰されたということです。

その後・・・、

後三条天皇から第三皇子の輔仁親王→その子の花園左大臣有仁卿→その子の伊豆国司中納言為綱卿→その子の田代信綱に伝わったといわれています。

したがって、信綱は後三条天皇の後胤ということになります。

信綱は、源頼朝が挙兵をするとこれに従い、戦陣に向かうときは必ずこの観音像を携えていたといいます。


岩殿観音
逗子の岩殿寺は、行基の十一面観音が安置されています。
源頼朝実朝も訪れた寺です。
板東観音巡礼二番札所。
https://www.yoritomo-japan.com/gandenji.htm


四万六千日
https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/simanrokusen.htm
鎌倉観音巡礼
https://www.yoritomo-japan.com/page134.html
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html


2011年7月18日月曜日

補陀洛寺~鎌倉材木座の観音霊場~

平安時代の中期頃から浄土信仰が盛んになります。

はじめは、阿弥陀仏の西方浄土が人々の信仰を集めますが、次第に南の補陀洛浄土への信仰が盛んになります。


補陀洛寺
1181年(養和元年)、源頼朝の祈願所として創建されたと伝えられています。
開山は、頼朝が伊豆の流人時代から交流のあったという
文覚
https://www.yoritomo-japan.com/page135fudarakuji.htm


「補陀洛」(補陀落)には、観音菩薩の浄土という意味があるそうです。

平安時代も後期になると、南の海には「補陀洛山」というのがあって、そこに行けば浄土の中で安楽できるという信仰が広まっていたといいます。

熱心な法華経信者だったという源頼朝は、補陀洛信仰にあわせて、鎌倉の東南に位置する海辺を観音霊場としたのでしょうか・・・。

補陀洛寺には、頼朝自作のものといわれる木像や、文覚が書いたとされる頼朝の位牌が残されています。

文覚の裸形像もあります。

また、平宗盛が最後まで持っていたという「平家の赤旗」が残されていることで知られています。
旗には「九万八万軍神」とあり、平清盛が書いたものといわれているそうです。



~補陀落渡海~

「補陀落渡海」とは、生きながら補陀洛浄土を目指して海に出ることです。

『吾妻鏡』は、1233年(天福元年)3月7日、下河辺行秀が補陀落渡海を行ったと伝えています。

行秀は、那須野の巻狩りで頼朝に大鹿を射るよう命じられますが、外してしまったことを恥じ、遁世していました。

智定房と名乗った行秀は、この日、30日分の食料を屋形船に積み、外から釘で密閉された状態で熊野灘から船出したといいます。

熊野は、西方の極楽浄土、東方の瑠璃浄土、南方の補陀洛浄土の地であるとされ、「蟻の熊野詣で」といわれるほどに参拝者が多かったそうです。

1218年(建保6年)には北条政子も熊野参詣に出掛けています。


8月には、樹齢150年ともいわれるサルスベリの古木が花を咲かせます。



補陀洛寺


鎌倉観音巡礼三十三ヶ所
https://www.yoritomo-japan.com/page134.html
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html


2011年7月14日木曜日

鎌倉の観音霊場巡り

源頼朝が熱心な観音信者であったことは知られています。

1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をした頼朝は、石橋山の合戦で敗れ海路安房に落ちのびますが、そのとき観音菩薩が船人となって頼朝を安房に渡したという伝説があります。


真鶴岩海岸
https://www.yoritomo-japan.com/yoritomo-funade.htm


『吾妻鏡』には、頼朝が京都清水寺から下された正(聖)観音像を守り本尊としていたことが記されています。

のちに建てられる持仏堂(法華堂)の本尊はこの正観音像だったといいます(参考:源頼朝の守り本尊)。


頼朝の影響もあってか、鎌倉時代には、鎌倉を起点とする板東三十三ヵ所が設定されています。


板東三十三ヵ所第一番札所:杉本寺
行基が開いたという鎌倉最古の寺。
本尊は行基・慈覚・恵心作という三体の十一面観音(杉本観音)。
https://www.yoritomo-japan.com/page042sugimoto.htm

板東三十三ヵ所第三番札所:安養院
頼朝の家臣田代信綱の観音堂が移築されたため田代寺と呼ばれています。
本尊は信綱の観音像を胎内に納めているという千手観音(田代観音)。

板東三十三ヵ所第四番札所:長谷寺
長谷観音の名で親しまれています。
本尊は開山の徳道が彫ったという十一面観音。
https://www.yoritomo-japan.com/page136hasedera.htm


観音信仰の一つに「四万六千日詣り」があります。

三浦半島の人たちは、朝早くから杉本観音田代観音長谷観音で四万六千日詣りを行い、逗子の岩殿寺をまわって帰宅していたといいます。

板東三十三ヵ所第二番札所:岩殿寺
徳道・行基によって創建された逗子の古刹です。
本尊は行基の十一面観音。
https://www.yoritomo-japan.com/gandenji.htm


昔は、杉本寺岩殿寺を結ぶ巡礼道がありました。
頼朝もその巡礼道を使って岩殿寺に通ったと伝えられています。

巡礼古道
https://www.yoritomo-japan.com/kodou-2.htm


江戸時代に入ると、観音巡礼が盛んに行われるようになります。

鎌倉郡においても、鎌倉、横浜戸塚、藤沢などにまたがる鎌倉郡三十三ヵ所が設けられました。

しかし、明治に入って廃寺となってしまった寺も多く、昭和に入って鎌倉市内の寺院のみで三十三ヵ所が設けられています。

鎌倉観音巡礼三十三ヵ所の御朱印
https://www.yoritomo-japan.com/page134.html


鎌倉観音巡礼三十三ヶ所
https://www.yoritomo-japan.com/page134.html
四万六千日
https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/simanrokusen.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html


よりともジャパン.com


2011年5月9日月曜日

十一面観音像の伝説~鎌倉:長谷寺~

長谷寺の本尊十一面観音菩薩像は、開山の徳道によって彫られたものと伝わっています。

徳道は、721年(養老5年)、一本の楠の霊木から、二体の十一面観音を彫りました。

一体は大和(奈良)の長谷寺に安置され、聖武天皇の勅によって行基が導師に迎えられ開眼供養が行われました。

もう一体は「有縁の地に出現して人々を救いたまえ」と行基によって海に流されました。

そして、736年(天平8年)、相模国三浦郡の長井浜に漂着します。

その尊像が現在の地に祀られ、鎌倉の長谷寺のはじまりとなったと伝えられています。


かきがら稲荷
行基によって海に流された観音像は、
体に付着した「かきがら」の導きで流れ着いたと伝えられています。
鐘楼の横にある稲荷社には、
観音さまのお導きがあるようにと「かきがら」が祀られています。

長谷寺縁起絵巻

鎌倉の長谷寺には、奈良の長谷寺の草創と十一面観音造立の由来を描いた「長谷寺縁起絵巻」が残されています。

室町時代に描かれたものとされ、神奈川県の重要文化財に指定されています。

「長谷寺縁起絵巻」は、

菅原道真が「長谷寺縁起文」を執筆する場面から始まり、開基となる藤原房前の援助を受けて徳道が十一面観音を彫り、行基によって開眼供養が行われたことなどが描かれています。

ただ、残念ですが鎌倉の長谷寺に関する事は描かれていません。


はせでらを 詣りて沖を 眺むれば

由比のみきはに 立つは白浪

長谷寺の本尊十一面観音像は、約10メートルにもなる大きな像です。鎌倉大仏とともに「長谷観音」の名で親しまれてきました。

板東観音巡礼、鎌倉観音巡礼の札所となっています。


長谷寺
https://www.yoritomo-japan.com/page136hasedera.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html


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