別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2024年5月4日土曜日

端午節会・端午の節句~清少納言・紫式部・源頼朝~


古代の日本では、旧暦の5月5日に薬猟(くすりがり)が行われていました。

鹿の若角や菖蒲や蓬などの薬草を取りにいった日とされています。

採集した薬は「薬玉」(くすだま)に詰められ、9月9日の重陽の節句まで飾るという風習があったのだといいます。

これが端午節会(端午の節句)の起源と言われています。

端午節会では、「菖蒲鬘」(あやめのかづら)をつけて参列し、天皇から「薬玉」を賜っていたようです。

騎射・走馬・打毬も行われていました。



清少納言の『枕草子』には・・・

「節は五月にしく月はなし。菖蒲、蓬などのかをりあひたる、いみじうをかし」

(節供は5月に及ぶものはない。菖蒲や蓬などが香っている様子はとても趣きがある)

と記されています。

端午節会は、平安時代の宮中で盛んに催され、軒に菖蒲や蓬を挿し、菖蒲を冠に飾ったり、菖蒲の葉で作った「薬玉」(くすだま)を柱に下げたりしていたようです。

また、菖蒲の長い根を贈り合う風習があり、紫式部小少将の君から菖蒲の根が贈られています。

『源氏物語』~蛍の巻~では・・・

兵部卿の宮から玉鬘に贈られた歌には、記録になるほどの長さの菖蒲の根が結びつけられていました。

菖蒲は古来より不浄を払い邪気を避けるものとされてきました。





鎌倉時代になると、「菖蒲」が武道を重んじる「尚武」と同じ読みであることから、武士たちも「端午の節供」を行うようになります。

『吾妻鏡』によると、1187年(文治3年)5月5日、鶴岡八幡宮で神事が行われ、北条政子が参拝したことが記されています。

これが鶴岡八幡宮「菖蒲祭」の始まりとなります。

源頼朝の御所の屋根にも魔よけの菖蒲が葺かれたようです。






端午節会

打毬(だきゅう)


菖蒲祭

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紫式部


清少納言








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2024年5月3日金曜日

紫式部が姉君と呼んだ人


大河ドラマ「光る君へ」で、まひろ(紫式部)が越前へと下るのもこうすぐかと思いますが・・・

その頃、紫式部は姉を亡くしています。

幼い頃に母を亡くしていた紫式部にとって姉の死は大きな影響を与えたようです。


『紫式部集』には「筑紫へ行く人のむすめ」(筑紫の君)が登場します。

紫式部が姉を亡くした頃、筑紫の君は妹を亡くし、二人は互いに姉妹の代わりに思いあう約束をして手紙を書きあったのだとか。

紫式部は筑紫の君を「姉君」と呼び、筑紫の君は紫式部を「中の君」と呼んでいたようです。


やがて、筑紫の君は、父の任官に伴い筑紫の肥前国へ旅立つことに。

そして、紫式部は越前守になった父藤原為時に同行して越前へと旅立ちます。

二人は離れても手紙のやり取りを重ねていたようですが、再会することはありませんでした。









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『白氏文集』~源氏物語や枕草子に影響を与えた詩文集~


『白氏文集』(はくしもんじゅう)は、中国唐の文学者・白居易の詩文集。

承和年間(834-848)以降に日本に伝来し、平安貴族の間で流行しました。

藤原行成はそれを書写して一条天皇に献上。

紫式部『源氏物語』清少納言の『枕草子』などにも影響を与えました。




紫式部が中宮・彰子に講義した「新楽府」は、『白氏文集』の中の諷諭詩。







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2024年5月2日木曜日

安倍晴明は平将門の子?


平将門は、自らを新皇と称して反乱を起こし、940年(天慶3年)2月14日、藤原秀郷と平貞盛によって鎮圧された豪族。


将門塚


藤原秀郷と平貞盛に討たれた平将門の首級は、4月25日に京都へ送られて梟首。

その首は京都で晒されるが、夜空へ舞い上がり、故郷へ向けて飛び去っていったのだとか。

その首が落ちた場所とされるのが、東京都千代田区大手町にある将門塚


将門が討たれた後、子の将国は常陸国信太郡(茨城県稲敷市)に落ち延びたのだといいます。

信太・・・

信太という地は大阪にもあります。

安倍晴明は和泉国の信太の森に棲んでいた白狐・葛の葉が生んだ子という伝説が残されています。

しかし・・・

「晴明は将門の子・将国で、常陸国で生まれ、都に上って花山天皇の信頼を得た」という伝説もあるらしい。



参考までに・・・

源頼朝の挙兵に参じた千葉常胤上総広常は、房総平氏・平忠常の子孫。

忠常の母は将門の娘。

北条時政の先祖といわれる平直方は、将門を討った平貞盛の子孫。









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2024年4月29日月曜日

奈良の長谷寺と鎌倉の長谷寺~徳道の観音様~


奈良の長谷寺鎌倉の長谷寺も十一面観音が本尊。

創建当初の十一面観音は、徳道がクスノキの霊木で造立させたものだったのだと伝えられています。



奈良の長谷寺は、東大寺開山の良弁の弟子だったという徳道が聖武天皇の勅命により開いたと伝えられる寺。

平安中期には初瀬詣(長谷寺詣)が盛んになり藤原道長が参詣。

道長の時代に活躍した女流文学者の菅原道綱母清少納言紫式部赤染衛門菅原孝標女も参詣しました。



観音堂

鎌倉の長谷寺も徳道が開いたと伝えられている寺。

奈良の長谷寺の草創と十一面観音造立の由来を描いた『長谷寺縁起絵巻』が伝えられています。

伝説によると、徳道は近江国で見つけたクスノキの倒木から二体の十一面観音像を造らせました。

一体は奈良の長谷寺に安置され、もう一体は行基が海に流したのだといいます。

流された観音像は、牡蠣殻に導かれて鎌倉に辿り着いたのだとか。


参考までに、紫式部ゆかりの京都大雲寺の本尊は行基作と伝わる十一面観音ですが、奈良の長谷寺鎌倉の長谷寺の十一面観音像と同じ霊木で造立されたのだと伝えられています。





長谷観音の伝説


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