太平記英勇伝三十一
遠藤喜右衛門春元
(歌川芳幾画)
遠藤直経は、浅井長政の家臣。
通称は喜右衛門。
武勇に優れ「浅井四翼」(あざいしよく)に数えられることも。
織田信長が長政を訪問した際、「後の禍根を断つために今殺すべきだ」と長政に暗殺を献策しましたが、長政に却下されたという逸話で知られています。
浮世絵や軍記物では、遠藤喜右衛門春元という表記も。
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直経の主君長政は、信長と同盟を結んだ義兄弟の間柄でしたが、1570年(元亀元年)の金ヶ崎の戦いで長政が離反。
信長は命からがら京都へ逃げ帰りました。
その2か月後・・・
信長が徳川家康と共に、浅井・朝倉連合軍と対峙します(姉川の戦い)。
戦いは信長・家康連合軍が勝利しますが、浅井軍の敗北が決定的になった際、直経は・・・
自軍の武将の首を携え、織田軍の武将になりすまして信長の本陣に忍び込みます。
そして、信長を討ち取ろうとしますが、寸前のところで信長の家臣・竹中重矩に見破られ、討取られたとのだと伝えられています。
竹中重矩は竹中半兵衛の弟で、直経とは竹生島で面識があったのだとか。
📎織田信長包囲網~金ヶ崎の戦い・姉川の戦い・志賀の陣~
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琵琶湖に浮かぶ竹生島は、北近江を支配した浅井氏が信仰した「神の棲む島」。
浅井長政は、1558年(永禄元年)に焼失した竹生島神社や宝厳寺の復旧資材を寄進し続けていたのだといいます。
遠藤直経も竹生島の管理に関わっていたようです。
1573年(天正元年)の小谷城の戦いで浅井氏は滅亡した後、羽柴秀吉は長浜城を築きますが、長政が寄進した資材や小谷城で使われていた資材を流用して築城されたのだと伝えられています。
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