1568年(永禄11年)、美濃の岐阜城を本拠とし「天下布武」を掲げた織田信長が、足利義昭を奉じて上洛。
信長は義昭を将軍に据えますが、それは義昭に従うということではなく、傀儡化して畿内支配を独自に進めるためでした。
信長に行動を制約されて主導権を信握られた義昭は・・・
信長の影響力を削ぐために各地の有力大名や宗教勢力へ「御内書(将軍の公文書)」を送り、共同戦線を張るよう呼びかけます。
これにより形成されたのが「織田信長包囲網」。
東西から信長を挟み撃ちにするもので、当初の主要メンバーは・・・
浅井長政・朝倉義景・三好三人衆などや、宗教勢力の本願寺(顕如)・比叡山延暦寺など。
「織田信長包囲網」が形成されるきっかけとなったのが1570年(元亀元年)4月の金ヶ崎の戦い。
信長が越前の朝倉義景を攻撃したものですが、信長と同盟関係にあった北近江小谷城の浅井長政が旧縁の深い朝倉家を助けるために突如離反。
長政に背後を襲われた信長は、命からがら京都へ逃げ返っています。
同年6月、信長は姉川の戦いで徳川家康と連合して浅井・朝倉連合軍に勝利して北近江での優位を確立しましたが、9月、信長が摂津で三好三人衆らと対峙している隙を突いて、浅井・朝倉連合軍が京都へ向けて進軍。
連合軍は近江へ侵攻し、信長の重臣・森可成が守る宇佐山城を攻撃し、可成が討死しています(宇佐山城の戦い)。
その後、連合軍は比叡山延暦寺に立て籠もり、信長は約3ヶ月にわたって対峙しました(志賀の陣)。
12月、将軍・足利義昭や関白・二条晴良らの仲介により、信長と浅井・朝倉の間で和睦が成立し、両軍は撤兵。
これにより第一次包囲網は一旦解体されましたが、信長と将軍・義昭の対立は深まり、後に武田信玄が加わる「第二次信長包囲網」へと発展していくことに。
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