別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2022年5月17日火曜日

大物主神社~源義経逗留の地~


大物主神社


大物主神社は、兵庫県尼崎市大物町にある社。


大物主神社


1185年(文治元年)、兄の源頼朝と対立して都を落ちた源義経は、大物主神社近くにあった七軒長屋に逗留したのだと伝えられています。


その後、神社前の大物浦から西国(九州)へ向けて船出した義経は・・・

暴風雨により難破。

四天王寺に宿した後、吉野山へ逃亡したのだと伝えられています。

吉野山に逃げこむ前に、住吉大社の神主・津守長盛の許で一夜を過ごしたとも・・・。



大物主神社


吉野山







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2022年5月9日月曜日

波の底の都~壇ノ浦の戦い~


源平最後の戦いとなった壇ノ浦

はじめは優勢だった平家軍でしたが・・・

潮の流れが変わって形勢が逆転。

源義経の猛攻撃をうけて壊滅状態となり、敗北を悟った平家一門は次々と海上へ身を投じていきました。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~安徳天皇の入水~

『平家物語』によると・・・

源氏の兵たちが平家の船に乗り移ってくると、二位尼(平清盛の妻時子)は、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を脇に挟み、草薙の剣(くさなぎ)を腰に差し、幼い安徳天皇を抱いて、ゆっくりと船の端に進んでいきました。

安徳天皇に「どこへ行くのだ」と問われた二位尼は、涙を流しながら

「君は、今の世に天子としてお生まれになりましたが、悪縁に引き寄せられ、御運はすでに尽きてしまいました。

まずは東に向かって伊勢大神宮を拝み、西方浄土の来迎の恩恵を受けるために念仏を唱えなさいませ。

この国は、辺地にある粟粒を散らしたような小国で、心苦しい場所です。

あの波の下にこそ、極楽浄土という素晴らしい都がございます。

そこへいっしょに参りましょう」

と答えます。

そして、「波の底にも都はありますよ」と慰めてから、深い海の底に沈んでいったのだといいます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~建礼門院の夢に出てきた竜宮城~

安徳天皇の母・建礼門院(平清盛の娘徳子)も海に飛び込んだのですが、助けられて都に戻ることになります。

『平家物語』によると・・・

播磨国の明石の浦(現在の兵庫県明石市)に着いた建礼門院。

うとうととしていると、昔の内裏よりもりっぱな所に、安徳天皇を参らせた平家一門の公卿や殿上人が礼義正しく並んでいる夢を見ます。

都を出てから、こんなに美しい所を見たことがありませんでした。

建礼門院が「ここは何という所ですか」と問うと、二位尼が「竜宮城という所です」と答えたのだとか・・・。



水天門

安徳天皇を祀る赤間神宮水天門は、竜宮城をイメージした門。


赤間神宮






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2022年5月8日日曜日

逆櫓の松~源義経と梶原景時の論争:屋島の戦い~




『平家物語』で知られている源義経梶原景時の逆櫓の論争。


1185年(元暦2年)2月、摂津国の渡辺党、熊野別当の湛増、伊予国の河野通信の水軍を味方につけた義経は、摂津国渡辺津に兵を集めた。

屋島の平家を攻めるため、渡辺津を出航するにあたり、景時と軍議を場を持った義経。

景時は「この度の戦いでは船に逆櫓をつけたい」と主張。

義経は「逆櫓とは何か?」と問う。

「馬は駆け引きが自由だが、船はそうはいかない。そこで船を後ろへも自由に漕ぎ進められるように、櫓を船の前部に取り付けたい」

と景時が説明すると義経は嘲笑いながら、

「はじめから逃げる事を考えては良い結果は得られない。義経の船にはそのようなものは不要。あなたの船には付けるがよろしい」

すると景時が、

「よき大将軍とは、進退を見極め、身の安全を考えながら、敵を滅ぼすもの。

前後もわきまえずに突進するのは猪武者と申す」

と述べると、義経は、

「猪だは鹿だか知らないが、戦はただ攻めに攻めて勝った方がよい」

と言い放ったのだとか・・・。


義経と景時の確執は、義経の没落へと繋がっていったと言われている。


ただ・・・

『吾妻鏡』2月14日の記述によると、源頼朝は当時周防国にいた源範頼に対して「土肥実平梶原景時と話し合って九州勢を味方にするように」と命じているので、景時は範頼と行動を共にしていたのかも・・・








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2022年4月25日月曜日

平敦盛の首塚と胴塚~一ノ谷古戦場~

敦盛の首塚
(須磨寺)


一ノ谷の戦い熊谷直実に討たれた平敦盛。

敦盛は、平清盛の弟・経盛の末子。

1184年(寿永3年)2月7日、源義経の奇襲で一ノ谷の平家軍が劣勢になると、敦盛は騎馬で海上の船に逃れようとするが、熊谷直実に呼び止められてしまう。

取って返した敦盛を直実は馬から組み落として首を斬ろうとするが、我が子・直家と同じ年頃の若武者を見て躊躇したのだと伝えられている。

このとき敦盛は16歳(17歳とも)。

涙ながらに敦盛の首をとった直実は、のちに世の無常を感じ出家している。

須磨寺の敦盛塚には首が葬られ、須磨浦公園の敦盛塚には胴体が葬られているのだとか。


敦盛の胴塚
(須磨浦公園)



一ノ谷古戦場









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