奥平貞昌(信昌)は、奥三河の南設楽郡作手の有力国人・奥平貞能の長男。
奥平氏は、はじめ今川氏に属し、桶狭間の戦い後、徳川家康の傘下に入りますが・・・
奥三河で武田の勢力が強まると、1571年(元亀2年)、武田信玄に降伏。
貞昌は、妻の於ふう・弟の仙千代丸・奥平勝次の次男の虎之介を人質として武田氏に差し出しました。
しかし、1573年(元亀4年)4月12日、武田信玄が死去。
6月、徳川家康は奥平父子を味方に引き入れるため、長女の亀姫を貞昌の正室とすることなどの条件を提示。
貞昌は、武田の人質となっている妻おふうと離縁して家康の家臣となります。
そのため、人質に出されていた於ふう(16歳)・仙千代丸(13歳)・虎之助(16歳)は、9月21日、武田勝頼の命により山県昌景が処刑。
三人の首は鳳来寺山麗に晒されたのだといいます。
1575年(天正3年)2月、奥平貞昌は長篠城主となります。
この年の5月、長篠城は武田勝頼に包囲されますが、貞昌の家臣・鳥居強右衛門の活躍もあって武田軍の攻撃を凌ぎきったのだといいます(長篠の戦い)。
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