別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2022年12月2日金曜日

三浦胤義の禅暁擁立の夢と承久の乱




三浦胤義は、三浦義澄の末子(九男)。

三浦義村の弟。


禅暁は、二代将軍源頼家の四男。

母は一品房昌寛の娘。


1204年(元久元年)7月18日、頼家が修禅寺で暗殺されると・・・

禅暁は仁和寺に預けられ、母は胤義の正室となっていました。


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1219年(承久元年)1月27日、三代将軍源実朝が暗殺され、実朝を討った公暁が誅殺されると、胤義は、禅暁を将軍に据えようと考えます。

しかし・・・

北条政子北条義時は、九条道家の子・三寅(後の九条頼経)を将軍として迎えてしまいます。

そして・・・

禅暁は公暁に加担していたとして、1220年(承久2年)4月14日に誅殺されてしまいました。


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1221年(承久3年)5月15日、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発します(承久の乱)。

『承久記』によると・・・

検非違使判官に任じられて在京していた胤義は、承久の乱の首謀者の一人・藤原秀康に誘われて朝廷軍に与することに。

その理由は・・・

頼家との子を北条氏に殺されて嘆き悲しむ妻を哀れに思い、鎌倉に謀反を起こそう考えたから・・・


『吾妻賀』によると・・・

1221年(承久3年)6月14日、幕府軍は、北条泰時が宇治川を渡河し、北条時房が瀬田橋を突破して、朝廷軍を敗走させ、翌15日には京都市中に進軍します。

胤義は東寺の門中に籠って、同族の三浦・佐原の軍勢と戦った後、西山の木嶋(太秦)で自殺しました。

首は胤義の家来が太秦の自邸へ持って向かいましたが、兄の三浦義村が捜し出して手に入れ、六波羅の泰時邸へ送ったのだとか・・・。




源実朝の暗殺


承久の乱

北条政子の言葉~承久の乱~

宇治川の戦い~承久の乱~


瀬田の合戦~承久の乱~






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