『吾妻鏡』によると・・・
1199年(正治元年)10月25日、将軍御所の侍所では、結城朝光が夢のお告げを受けたとして、正月に亡くなった源頼朝のために「一万遍の念仏」を唱えることを皆に勧めます。
そして、皆で念仏・・・
「南無阿弥陀仏」を唱和。
そのとき朝光は
「忠臣は二君に仕えずと申すが・・・
頼朝公が亡くなられたときに出家をとどめられたことを大変後悔している・・・」
と語ったのだとか。
頼朝の近くに仕えていた朝光の言葉に皆が涙を流したのだといいます。
しかし・・・
梶原景時は、「忠臣は二君に仕えず」と述べたことを源頼家への謀反として捉えらます。
それを朝光に知らせたのが阿波局。
驚いた朝光は三浦義村に相談。
景時の失脚へとつながっていきます。
(結城市:称名寺)
朝光は、1214年(建保2年)頃から関東での布教のため常陸国に草庵を結んでいた親鸞に帰依しています。
称名寺は、朝光が建てた念仏堂を起源。
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