1195年(建久6年)、源頼朝は、妻の政子・嫡男の頼家・長女の大姫を伴って上洛します。
南都東大寺の大仏殿落慶供養に出席するための上洛ですが、大姫を後鳥羽天皇の妃にすることが真の目的だったともいわれています。
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~大姫と義高~
時代は遡りますが、1183年(寿永2年)、頼朝と対立していた木曽義仲は、子の義高を人質として鎌倉に送り、頼朝と和解をします。
このとき、頼朝の長女大姫と義高の婚儀も整っていたといいます。
しかし、間もなく頼朝と義仲の関係は破れ、翌年、頼朝は義仲を攻めて敗死させ、義高も誅殺しました。
(狭山市)
清水八幡宮は木曽義高を祀る神社。
(鎌倉:常楽寺)
常楽寺の裏山にある木曽塚は、木曽義高の首塚と伝えられています。
義高によくなついていた大姫の受けた衝撃は大きく、水も飲めないほどに衰弱してしまったといいます。
その後も大姫の心が癒されることはありませんでした。
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~大姫の入内問題と九条兼実の失脚~
1194年(建久5年)、頼朝の妹婿の一条能保の子高能が鎌倉に下ってきました。
この頃の大姫は病気も小康状態を保っていたそうです。
高能との縁談をすすめられた大姫は、これを強く拒絶します。
誰の発案で大姫と高能の縁談が持ち上がったかは分かりませんが、頼朝は、この時にはまだ大姫の入内を考えていなかったのでしょうか?
そして、上洛の時を迎えます。
大姫は、当時17歳前後ではなかったかといわれています。
頼朝は、これまで関白九条兼実との協力体制を築き、朝廷と幕府の関係を円滑に運営してきました。
特に、後白河法皇亡き後、頼朝が征夷大将軍に任ぜられたのは兼実の力によるものでした。
しかし、この度の上洛では、兼実と敵対関係にある丹後局と源通親に接近し、大姫の入内運動を行っています。
頼朝の支持が、兼実から丹後局と通親に移ったことは、兼実の失脚に繋がりました。
そして、1196年(建久7年)の政変では、兼実は関白を罷免され、弟の慈円も天台座主(延暦寺の貫主)の地位を奪われることになります。
この政変について頼朝も知っていたとする説があります。
兼実が関白を罷免された後、京都では、
「兼実邸に出入りする者は頼朝のお咎めを受ける」
という噂が流れたともいいます。
大姫入内を考えた頼朝、親幕派の兼実を裏切った頼朝・・・
やはり頼朝も貴族であって、東国武士の棟梁になりきることはできなかったのか・・・
そんな中の1197年(建久8年)7月14日、大姫はこの世を去ります。
おそらく20歳前後だったのでしょう。
(鎌倉)
岩船地蔵堂は、大姫の守り本尊を祀る堂と伝えられています。
(鎌倉:常楽寺)
常楽寺の木曽塚の下にある姫宮塚は、北条泰時の娘の墓と伝えられてきました。
ただ、最近では大姫の墓ではないかとも・・・。
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