1180年(治承4年)、東大寺は平重衡の南都焼討によって灰燼に帰してしまいます。
翌年から重源を大勧進として進められた再建は、1185年(元暦2年)に大仏の鋳造が終了し、1195年(建久6年)に大仏殿の落慶供養が執り行われました。
源頼朝も参列しています。
(大仏殿)
『吾妻鏡』によると、2月14日午前10時頃、頼朝は上洛のため鎌倉を出発。
妻の北条政子、嫡男頼家、長女大姫を伴っていました。
先陣は鎌倉武士の鑑と言われた畠山重忠。
3月4日、近江国の鏡の宿を出発し、夕刻、六波羅の屋敷に到着。
3月6日、大内惟義を六条の左女牛若宮に遣わし、神馬(黒)を奉納。
3月9日、網代車(牛車)に乗って石清水八幡宮、左女牛若宮の臨時祭に参列。
(左女牛若宮)
石清水八幡宮から直接向かったようです。
3月11日、東大寺に馬千頭、米一万石、黄金千両、上絹千疋(二千反)を献上。
そして3月12日は、東大寺大仏殿落慶供養の日。
朝方は雨で晴れましたが、午後になって雨がひどく降り始めました。
地震もあったようです。
創建当初の大仏殿は現在のものより大きく、東西には100メートルに達する七重塔が配されていました。
頼朝が参列したときの大仏殿は創建当初のものと同じ大きさだったといいます。
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3月13日、頼朝は宋の工人で大仏鋳造と大仏殿の建設に尽力した陳和卿に会うことを望みますが、和卿は「多くの人の血を流した頼朝」に会うこと拒否したそうです。
それでも頼朝は、奥州征伐のとき着用していた甲冑・鞍つきの馬三頭・金銀等を褒美として贈ります。
しかし、和卿はその褒美もほとんど突き返し、甲冑と鞍だけをもらい、甲冑は東大寺造営の釘料として、鞍は転害門で行われる「手掻会」(てがいえ)の祭典のために東大寺に納めてしまったのだとか・・・。
転害門(てがいもん)は、1180年(治承4年)の平重衡の兵火、1567年(永禄10年)の松永久秀の兵火にも焼け残った貴重な建物で、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構です。
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https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/todaiji/todaiji.htm
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鎌倉との繋がりを求めて。
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