1211年(建暦元年)10月、鴨長明は飛鳥井雅経の推挙によって鎌倉に下向し、源実朝と何度か面会しています。
10月13日の源頼朝の命日には法華堂(頼朝墓)を参拝。
経を唱え、昔を思い出して涙し、一首の和歌を法華堂の柱に書き残したのだそうです。
『北条九代記』によると・・・
頼朝の法華堂を参拝した長明は、
「頼朝の武勇の威力は天下にあまねく輝き渡り、勢いある武力で国内を平定し、代々と続いた源家の大運がここに開け、なびかぬ草木もなかったのに、無常の悪鬼の襲い来るのを防ぐすべもなく、53歳の生涯はたちまちに終わり着いて、青草の生える一個の塚に葬られ、墨書きの施された数尺の卒塔婆ばかりが、その光栄ある頼朝の名を伝えるしるしとして残っている」
と、昔を懐かしんで涙を流しながら、一首の和歌を法華堂の柱に書きつけたのだといいます。
「草も木もなびきし秋の霜消えて空しき苔をはらう山風」
(人はもとより草も木もなびいていた秋の霜(頼朝)が消え去って、塚に生えたむなしい苔を山風が吹きはらっているばかりである)
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「君が代も我が代も尽きじ石川や瀬見の小川の絶えじとおもへば」
源実朝が詠んだこの歌は、鴨長明の
「石川や瀬見の小川の清ければ月も流れも尋ねてぞすむ」
を本歌としたもの。
「瀬見の小川」は、下鴨神社が鎮座する糺の森を流れる川。
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(下鴨神社摂社河合神社)
鴨長明は歌人・随筆家。
三大随筆の一つ『方丈記』は、長明が鎌倉に下向した翌年に成立。
下鴨神社の摂社河合神社に置かれている方丈の中から世間を観察して、世の無常と人生のはかなさを著したのだといいます。
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現在の墓塔は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪(しまづしげひで)が建てたもの。
島津の紋
島津氏の祖忠久の母は、頼朝の乳母を務めた比企尼の長女丹後内侍で、忠久は頼朝の御落胤ともいわれてきました。
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