源頼朝の信頼篤く鎌倉幕府の侍所初代別当を務めた[ ① ]は、北条氏排斥の企てに参加した甥や子に対する処罰に憤り、執権[ ② ]の打倒を目指して敗れ、この戦いによって一族は滅亡した。
(第6回鎌倉検定試験1級:記述式の問題その3)
信濃国の住人泉親衡の謀反計画が発覚したことをきっかけとして起こった和田合戦。
謀反計画の加担者の中に和田義盛の子義直・義重と甥の胤長がいました。
源頼朝亡き後、幕府の実権を握るため、梶原景時、比企能員、畠山重忠といった有力御家人を次々に滅ぼしてきた北条氏がこの機を逃すはずがありませんでした。
(和田塚)
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和田合戦において、従兄弟である和田義盛を裏切り、北条義時に味方した人物はだれか
(第5回鎌倉検定試験2級:歴史・旧跡の問題)
1 三浦義明
2 三浦義村
3 三浦泰村
4 三浦義澄
『古今著聞集』によれば、上席に着席した千葉胤綱に対し三浦義村が「下総の犬めは寝場所を知らぬな」とつぶやくと、胤綱は「三浦の犬は友を食らうぞ」とつぶやいたといいます。
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和田合戦について、次の説明文で内容に誤りを含むものはどれか。
(第8回鎌倉検定試験2級:歴史・旧跡の問題)
1 和田合戦の原因は、北条義時が謀反の疑いで和田義盛の子と甥を処罰したためである。
2 和田合戦の最中、宇津宮辻子にあった御所は、和田義盛の子朝比奈三郎義秀に攻め入られ、焼失した。
3 時の将軍であった源実朝は、御所の北方にある頼朝法華堂に逃げ込んで難を免れた。
4 由比ヶ浜や若宮大路での激戦の末、和田義盛が戦死、和田氏の敗北で合戦は終結した。
和田合戦が起こったのは1213年(建暦3年)。
御所は大倉にありました。
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和田合戦当時の将軍御所は現在の〔 ① 〕小学校付近に位置していた大倉御所であったが、和田義盛の子の〔 ② 〕の軍勢が将軍(大倉)御所に突入して放火したため、御所は焼失した。
(第8回鎌倉検定試験1級:記述式の問題その3)
1213年(建暦3年)5月2日申の刻(午後4時頃)、和田義盛は150騎の兵を三手に分け、御所の南門・北条義時邸の西門・北門を襲撃します。
酉の刻(午後6時頃)、御所へ乱入。
北条泰時・弟の朝時・足利義氏らが防ぎますが、朝比奈義秀が総門を突破して南庭へ乱入し、火を放ったため、源実朝は大江広元・北条義時とともに源頼朝の法華堂へ避難しました。
(御所跡)
(法華堂跡)
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2022年の大河ドラマ