別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2022年12月15日木曜日

北条義時追討の宣旨に対する返書


『吾妻鏡』によると・・・

1221(承久3年)5月27日、北条義時は、院の使い(押松丸)を京都へ返します。

押松丸は、5月15日に発せられた「義時追討の宣旨」を持って鎌倉に潜入し捕らえられていました。

押松丸には、宣旨に対する返書を持たせています。


『北条九代記』によると、その内容は・・・

「義時は院に忠義を尽くしてまいりましたのに、讒言をお信じになられたことで、違勅の者とされました。

そのため、弟の時房、子の泰時・朝時をはじめとする十九万騎の軍勢を上洛させます。

それでもお考え違いなさっているときは、子の重時・政村をはじめとする二十万騎を率いて、義時自身が参上いたしましょう」


『吾妻鏡』・『北条九代記』によると・・・

6月1日、京都に着いた押松丸は御所に参上。

「義時の首は誰が取った?」

「義時はどこへ逃げた?」

という質問が相次いだのだといいます。

後鳥羽上皇も関東の情勢について尋ねますが・・・

押松丸が「三浦胤義の手紙を三浦義村が受け取って義時に見せてからは、鎌倉が騒然とし、諸国から兵が集まり、官軍と戦うために上洛してくる関東武士は幾千万にも及びます」

と報告すると、院中の人々は驚くほかなかったのだといいます。


「承久記絵巻」
 
三浦義村北条義時に弟胤義から送られてきた手紙を見せる場面。

『吾妻鏡』によると、胤義が義村に送った手紙には「勅命にしたがって義時を追討するように」と書かれていたのだといいます。







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