別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2020年9月3日木曜日

善光寺縁起絵巻と松平頼重と高松城

 




英勝寺に伝えられる「善光寺縁起絵巻」は、釈迦の前世から信濃善光寺の建立までが描かれたもの。 

善光寺縁起の諸本の中でも巻物形式というのは唯一なのだとか。

「鎌倉東光山御宝物帳」には、高松藩初代藩主・松平頼重が「善光寺阿弥陀縁起」を奉納したという記述があって、「善光寺縁起絵巻」と同一のものと考えられているようです。








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松平頼重は、水戸藩初代藩主・徳川頼房の長子。

母は久昌院。

久昌院が懐妊すると、頼房は尾張徳川家・紀州徳川家に男子がいなかったのに遠慮し、堕胎を命じたそうです。

堕胎せずに済んだのは英勝寺を建立した英勝院の助けがあったからだと伝えられています。

1639年(寛永16年)に常陸下館藩主となり、1642(寛永19年)5月には讃岐高松藩主となっています。




高松城は、1587年(天正15年)に生駒親正によって築かれた海城。
 
1639年(寛永16年)に起こった生駒騒動により、四代高俊が出羽国矢島藩に転封となると、高松藩は幕府直轄となり、1642年(寛永19年)、松平頼重が入封。 

現在見られる遺構は、頼重によって改修されたもの。

二代藩主となったのは、頼重の弟で水戸藩二代徳川光圀の子頼常。

頼常は頼重の養子となって家督を継いだ。

参考までに、頼重の子綱方と綱條は光圀の養子となり、綱方が家督を継ぐ前に亡くなったことから、綱條が水戸藩の家督を継いでいる。
  
1869年(明治2年)廃城。

 
鐘楼

鐘楼の鐘(「報時鐘」)は、1652年(承応2年)、頼重が城下の人々に時を知らせるために鋳造させたもの。



「玉藻城」とも呼ばれた高松城跡は、玉藻公園として整備されている。






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英勝寺

信濃善光寺


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