園城寺は、天台寺門宗の総本山。
源頼義・新羅三郎義光をはじめとする源氏ゆかりの寺。
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~平清盛の園城寺焼討ち~
『吾妻鏡』によると・・・
1180年(治承4年)12月11日、平清盛は、5月の以仁王の挙兵に際して、園城寺が味方したのを理由に、五男重衡を遣わして合戦に及んでいます。
園城寺が以仁王に味方したことについて、清盛は大して気にしていなかったようですが、以仁王の令旨を受けた伊豆の源頼朝が挙兵したことで、頼朝にも味方する可能性を心配しての決定だったようです。
翌12月12日、園城寺は焼かれ、金堂以下の堂塔は、ほとんど灰となってしまいました。
このとき、すでに南都(東大寺・興福寺)も攻撃する計画があったようです。
※平重衡の南都焼討が起こるのは12月28日。
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~鎌倉幕府に保護された園城寺~
鎌倉に武家の都を打ち建てた源頼朝は園城寺を保護し、1182年(寿永元年)には、鶴岡八幡宮の初代別当に園城寺の円暁を任命しています。
頼朝亡き後も園城寺保護は引き継がれ、1214年(建保元年)、延暦寺に焼かれた園城寺の再建に尽力したのは北条政子だったそうです。
二代将軍源頼家の子・公暁が修行したのも園城寺でした。
1219年(建保7年)、三代将軍源実朝が公暁に暗殺されると、一時期、鎌倉幕府から冷遇を受けることとなりますが、五代執権北条時頼の信頼が厚かった隆弁が鶴岡八幡宮と園城寺の別当に就任すると、衰退しつつあった園城寺は、時頼の支援を受けながら再興されたのだと伝えられています。
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園城寺は、天智天皇・天武天皇・持統天皇の誕生の際に産湯に用いられた霊泉があることから「御井の寺」と呼ばれていました。
そのため、一般的には「三井寺」(みいでら)と呼ばれています。
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