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2019年4月19日金曜日

鎌倉武士が鍛錬を重ねた馬上の弓術:流鏑馬神事

流鏑馬馬場の準備完了の鶴岡八幡宮

4月21日には武田流流鏑馬が奉仕されます。


馬場本より


流鏑馬は、疾走する馬上から鏑矢を放ち的を射る弓術の一つ。

古くは「騎射」と呼ばれ、京都の葵祭(賀茂祭)の前儀として行われる流鏑馬も明治初年までは「騎射」と呼ばれていました。

藤原宗忠の日記『中右記』には「流鏑馬」の記事が登場し、1096年(永長元年)に鳥羽上皇が糺の森の流鏑馬を観覧した記録が残されています。

このころの流鏑馬は朝廷の遊興として行われていたようですが、武家が台頭してくると祭礼行事の中核に位置付けられ、神事として発展していきます。

そして、武家社会の確立に大きな役割を果たしていきました。


源頼朝は、1187年(文治3年)8月15日、鶴岡八幡宮で放生会と執り行います。

その放生会の中核に取り込んだのが流鏑馬神事

頼朝は前年の8月15日、西行から弓馬について学んでいました。

📎西行と流鏑馬


流鏑馬は、頼朝にとっては軍事力を結集させるために必要なイベントだったのかもしれません。

そして、御家人たちにとっては、在所の祭礼などで奉納して磨き上げてきた射芸を披露(力を誇示)する機会となりました。

1187年(文治3年)8月15日の流鏑馬では、弓の名手といわれた熊谷直実が射手ではなく的立て役を命ぜられてしまいます。

これに腹を立てた直実は役を拒否して所領を減封されたという逸話が残されています。

📎熊谷直実の逸話

その一方で、処刑されるはずの諏訪盛澄が妙技を披露して罪を許されれうという珍事も。

📎諏訪盛澄の逸話

1190年(建久元年)の流鏑馬では河村義秀も妙技を披露して罪を許されています。

📎河村義秀の逸話


頼朝鶴岡八幡宮で流鏑馬を行ったことで、流鏑馬は各地に広まっていきますが、北条氏の時代になると、摂家将軍・親王将軍を迎えるようになり、流鏑馬が権力誇示の行事へと変化し、放生会供奉を辞退する御家人も増え、次第に流鏑馬は衰退していったのだといいます。

さらに、鎌倉幕府の衰退とともにすたれ、南北朝期には行われなくなりました。

「何とかしないと」思ったのが江戸幕府6代将軍徳川吉宗。

吉宗が小笠原常春に命じて流鏑馬を復興させたことで、再び流鏑馬が各地で行われるようになったのだといいます。


馬場末より






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