一ノ谷の戦いは、1184年(寿永3年)2月7日、摂津国の福原と須磨で源平が激突した戦い。
源範頼率いる5万6千騎が大手(生田)から攻め寄せ、源義経率いる精鋭部隊が奇襲をかけたことで、平家軍は混乱し総大将の平宗盛らは屋島へと逃れていった。
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~敦盛と直実の一騎打ち~
『平家物語』によれば・・・
熊谷直実は、波際を敗走する平家の若武者を呼び止めて一騎討ちを挑みます。
直実が組み敷いて首をとった若武者は平清盛の甥・敦盛でした。
敦盛は16歳だったとも17歳だったともいわれています。
我が子と同じくらいの齢の若者を討ち取ってしまった直実。
この事で出家を考えるようになったのだとか・・・
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~平敦盛の首塚と胴塚~
(須磨寺)
一ノ谷の戦いで熊谷直実に討たれた平敦盛。
敦盛は、平清盛の弟・経盛の末子。
源義経の奇襲で一ノ谷の平家軍が劣勢になると、敦盛は騎馬で海上の船に逃れようとするが、熊谷直実に呼び止められてしまいます。
取って返した敦盛を直実は馬から組み落として首を斬ろうとするが、我が子・直家と同じ年頃の若武者を見て躊躇したのだとか・・・。
このとき敦盛は16歳(17歳とも)。
涙ながらに敦盛の首をとった直実は、のちに世の無常を感じ出家しています。
須磨寺の敦盛塚には首が葬られ、須磨浦公園の敦盛塚には胴体が葬られているのだといいます。
(須磨浦公園)
(須磨寺)
(須磨寺)
源義経が平敦盛の首を実検するため腰を掛けたという松。
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~捕えられた平重衡~
平重衡は、平清盛の五男。
東大寺や興福寺を焼いた武将として知られています(南都焼討)。
一の谷の戦いで梶原景季に捕えられ、鎌倉へ送られた後、木津川で斬首されました。
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