九条家は五摂家のひとつで九条兼実を祖としています。
九条道家は兼実の孫。
京都五山第四位の東福寺は、道家が九条家の菩提寺として建立されたのが始まり。
寺名は、奈良の東大寺と興福寺から「東」と「福」の二字をとって付けられました。
最勝金剛院は、九条家の墓を管理するために再興された東福寺の特別由緒寺院。
墓所の奥にある八角堂は九条兼実の廟所。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1219年(建保7年)1月27日、三代将軍源実朝が暗殺されると、北条氏は親王を将軍にしようと考えますが、その願いは後鳥羽上皇に断れます。
そのため、九条道家の子三寅(のちの九条頼経)が鎌倉へ下向しました。
頼経は、1226年(嘉禄2年)、将軍宣下を受け、第四代将軍となります。
しかし、北条経時が執権になると・・・
1244年(寛元2年)、反得宗勢力に接近していた頼経は将軍職を奪われ、子の頼嗣が将軍となります。
その後も鎌倉に残っていた頼経でしたが、北条時頼が執権になると・・・
1246年(寛元4年)、名越光時とともに時頼打倒を企てた頼経は、鎌倉を追放され、京都に送還されました(宮騒動)。
そして・・・
1251年(建長3年)12月、了行法師らの謀反計画が発覚。
この計画に九条道家と頼経の父子が加担していたことが判明し、幕府は五代将軍頼嗣を廃することを決定。
1252年(建長4年)2月20日、後嵯峨上皇の第一皇子宗尊親王の鎌倉下向を申し入れるための使者を京都に派遣。
その翌日、九条道家が亡くなります。
死因は病気という事のようですが、詳しい事は不明です。
頼嗣は・・・
3月22日に幕府を出て北条時盛の佐助谷の屋敷に入り、4月3日に京都へ出発しています。
それから4年・・・
1256年(康元元年)8月11日、頼経が死去。
同年9月25日、頼嗣が死去。
死因は、流行していた疫病によるものと考えられているようですが、4年の間に道家・頼経・頼嗣の3名が相次いで亡くなっていることから、幕府に暗殺されたのではないかという説もあるようです。
鎌倉の明王院は、四代将軍九条頼経が創建した寺院。
鎌倉幕府の将軍が創建した最後の寺です。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2022年の大河ドラマ