義高は、人質として鎌倉にいました。
頼朝の長女大姫の婚約者だったのだとも言われていますが、いずれにしても大姫は義高によく懐いていたようです。
当時、大姫は7歳、義高は12歳と言われています。
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『吾妻鏡』によれば・・・
頼朝は、義高誅殺を側近の者に話すのですが、それを聞いていた女房らによって内々に大姫に知らされてしまいます。
4月21日夜明け前、大姫は義高に女装をさせ、大姫の女房たちが義高を囲んで屋敷から出しました。
馬は、他の場所に隠してありました。
馬蹄には真綿が巻かれ、蹄の音を人に聞かれないようにしてあったといいます。
義高の寝床には、海野幸氏が臥し、日が昇ると、双六をして義高がいるふりをしていました。
しかし・・・
晩になってばれてしまいました。
怒った頼朝は、幸氏を捕らえ、堀親家以下の者に義高を見つけ出して討ち取るよう命じます。
大姫は、あわてふためき、魂が消えてしまうほどだったといいます。
※海野幸氏は義高と同い年で側近として仕えていました。
それから5日後の4月26日、堀親家の郎党藤内光澄が鎌倉に戻り、義高を入間河原で誅殺したことを報告します。
このことは内密にされていたようですが・・・
大姫に漏れてしまいました。
大姫は嘆き悲しみ、水も喉を通らなってしまいます。
母の北条政子も大姫の心中を察して、義高の死を嘆き悲しみ、御所中の多くの男女が悲しみにひたったといいます。
それから2ヵ月後の6月27日、義高を討った藤内光澄が梟首されました。
何故か・・・
北条政子の憤りによってです。
政子の憤りの理由は・・・
義高の死から大姫は病の床についたままで、日毎に重くなっていました。
政子は次のように頼朝を追求しています。
「大姫の病気は義高が殺されたことが原因。
したがって、藤内光澄のせいである。
命令であったとしても、なぜ内々に詳しい事情を大姫に知らせなかったのか・・・」
言い逃れできない頼朝は、藤内光澄を梟首するよう命じたのだそうです。
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(鎌倉:常楽寺)
木曽塚は、木曽義高の墓と伝えられています。
(狭山市)
清水八幡宮は木曽義高を祀る社。
首を取られた義高の遺体は、里人の手によって入間河原に葬られたのだと伝えられています。
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その後も大姫は病の床につく日々が続き、快復することはなく、1197年(建久8年)7月14日に亡くなりました。
20歳だったと言われています。
義高を逃がすのを手伝った海野幸氏は、頼朝に認められて御家人に加えられ、弓の達人だったことから頼朝の弓馬四天王の一人に数えられています。
(鎌倉:扇ガ谷)
岩船地蔵堂には、大姫の守本尊とされる石造地蔵尊が置かれています。
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