1180年(治承4年)6月19日、京都の三善康信が伊豆の源頼朝に伝えてきたのは、「平家が全国の源氏を討伐する」という内容でした。
頼朝は、4月27日に以仁王の発した平家打倒の令旨を受け取っていましたが、なかなか挙兵を決意することができなかったようです。
しかし、三善康信からの報告で、ようやく挙兵に向けて行動を開始しました。
6月24日、頼朝は源氏累代の家人に書状をしたためて安達盛長を遣わし、7月10日、盛長からの報告を受けています。
その内容は・・・
「相模国には召集に従うものが多くいる。
ただ、波多野義常と山内経俊は、召集に従わないばかりか、暴言を吐く始末」
というものだったようです。
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波多野義常は、相模国波多野荘の武将。
父の義通は、源義朝に仕えて保元・平治の乱で活躍。
義朝の次男・朝長(頼朝の異母兄)は、義通の妹が産んだのだと伝えられています。
『吾妻鏡』によると・・・
頼朝の招集を断った波多野義常は、10月17日、追手が差し向けられると松田郷で自刃。
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山内経俊は、相模国鎌倉郡山内荘の武将。
父の俊通は源義朝に仕え、母の山内尼は源頼朝の乳母でした。
頼朝の招集に暴言を吐いた山内経俊はどうなったか・・・
『吾妻鏡』によると・・・
富士川の戦い後の10月23日に降伏。
山内荘は没収され、土肥実平に預けられました。
11月26日、頼朝は経俊を斬罪に処すよう命じますが、母の山内尼の哀訴で助命されています。
北鎌倉山ノ内の明月院は、山内経俊が父・俊通の菩提を弔うために建てた明月庵を前身としています。
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