1246年(寛元4年)3月21日、四代執権北条経時の病気がかなり深刻な状況となり、3月23日、経時の居所で深秘の御沙汰がありました。
深秘の御沙汰とは、得宗家の私的会議(秘密会議)で、のちの得宗家の政治に大きな発言力を持つようになります。
経時は、その会議で執権職を弟の時頼に譲渡します。
死期が迫っている上、二人の子供が幼いための決定でした。
その後、経時は4月19日に出家します。
法名は安楽。
そして閏4月1日死去。
翌日、佐々目山麓に葬られました。
経時が亡くなったとき6歳だった長男(隆政)は園城寺の隆弁のもとで出家し、1263年(弘長3年)1月9日、23歳で亡くなっています。
3歳だった次男(頼助)も出家し、三宝院や仁和寺で修行を積み、鶴岡八幡宮の別当、左女牛若宮の別当、東寺の長者、東大寺の別当などを歴任し、1296年(永仁4年)2月28日、53歳で亡くなっています。
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