源頼朝と対立して、1185年(文治元年)11月に京都を落ちて行方をくらましていた源義経。
1186年(文治2年)の7月頃まで、比叡山に匿われていたことが判明したものの、その後は再び行方知れずになっていました。
しかし、9月20日、義経の郎党・堀景光が京都に潜伏していたところを比企朝宗に捕えられました。
景光の白状によって義経が興福寺に身を潜めていることが判明。
翌日、比企朝宗が数百騎を率いて興福寺の聖弘(しょうこう)の住坊を取り囲みますが、義経を見つけ出すことはできずに京都へ帰っています。
興福寺は、藤原氏の氏寺として創建された寺院で、武家不介入の治外法権を維持していました。
多くの僧兵を抱え、その強大な力で大和国を支配し、源頼朝も大和国に守護を置くことはできないでいました。
そういう寺院に武力をもって踏み込んだことで大きな騒ぎとなったようです。
12月25日には、別当の信円が自治権の侵害を朝廷に訴えていますが、一条能保が陳謝したことで収まったようです。
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興福寺が義経を匿っていたことを知った鎌倉の頼朝は・・・
翌1187年(文治3年)、義経を匿ったとして興福寺の聖弘(しょうこう)を鎌倉に呼び出します。
聖弘は義経と師檀の関係にあって、義経のために祈祷していたといいます。
鎌倉に来た聖弘は小山朝光に預けられていましたが、3月8日、頼朝は直接の聖弘に面会します。
そして・・・
「義経は天下を乱す凶臣で、その行方をくらまし、朝廷からは処刑するよう求められている。
そのため、天下の人々が皆義経に従わないでいるのに、あなただけが義経のために祈祷を行っている。
しかも、義経に同意して何か企んでいるという噂も耳にするが、それはどうしたことか」
と尋問すると、聖弘は・・・
「義経があなたの代官として平家を追討するときに、義経とは祈祷の約束をしたので、それ以来誠意をもって祈祷を続けておりました。
これが報国の志ではないと言われるのでしょうか。
また、義経が関東から厳しく咎められて行方をくらましたとき、師檀の関係のよしみから奈良に来ましたので、一時匿い、頼朝様と和解するよう諫めた上で、下法師らをつけて伊賀国へ送り出しました。
その後は音信不通です。
祈祷は謀叛を祈ってのことではなく、義経を諫めて謀叛の心を宥めるもので、罪に問われるものではありません」
と答えました。
さらに・・・
「関東の今の無事は義経の武功によるものです。
しかし讒言を聞き入れて御恩と奉公の関係を忘れ、恩賞の地を取り上げてしまえば、逆心を抱くのは当然のことです。
早々に義経を呼び返して和解し、兄弟で水魚の交わりをする事が国を治める方法です。
これは義経に味方して申したのではなく、天下の平穏を考えてのことです」
と答えました。
この聖弘の態度に感心した頼朝は、さっそく勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を命じたのだといいます。
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参考までに・・・
義経は、1187年(文治3年)2月10日、伊勢・美濃などを経て奥州平泉の藤原秀衡を頼っています。
正室の郷御前と子も一緒でした。
一行は、山伏や稚児に変装していたのだといいます。
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