(小田原市:城前寺)
1193年(建久4年)に起こった曽我兄弟の仇討ち。
曽我十郎祐成と曽我五郎時致が工藤祐経を討った事件ですが、その発端は、彼らの先祖・工藤祐隆の時代まで遡らなければなりません。
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1.嫡孫が不満を持つ家督相続
工藤祐隆は藤原南家の流れをくむ工藤氏の6代目。
伊東荘・宇佐美荘・河津荘などを領していました。
しかし、嫡男の祐家が早世してしまいます。
そこで祐隆は、後妻の連れ子との間に生まれた祐継に本領である伊東荘・宇佐美荘を相続させ、嫡孫に当たる伊東祐親に河津荘を相続させました。
本領を相続した祐継の子が曽我兄弟に討たれることとなる工藤祐経。
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2.伊東祐親が工藤祐経の所領を横領
本領を相続した工藤祐継でしたが・・・
早世してしまいます。
幼い子の祐経には伊東祐親が後見人に付いたようです。
その後、元服した祐経は、祐親の娘・万劫を娶り、上洛して平重盛に仕えます。
しかし・・・
祐経が京にいる間、祐親が伊東荘を横領、妻の万劫も取り上げて土肥遠平に嫁がせてしまいます。
祐経は何度も訴訟を起こしたそうですが、伊東荘は返ってきませんでした。
(伊東市)
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3.工藤祐経が河津祐泰を殺害
1176年(安元2年)、源頼朝を慰めるための狩猟が催されました。
その狩猟の後、伊東祐親の嫡男・河津祐泰が工藤祐経に殺害されるという事件が発生します。
祐経は、所領を横領した祐親を狙ったそうですが、誤って祐泰を殺害してしまったのだと伝えられています。
(伊東市:東林寺)
祐泰が殺害された後、妻(横山時重の娘)は子の十郎と五郎を連れて曽我祐信と再婚。
この十郎と五郎が、のちに仇討ちを決行する曽我兄弟。
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4.曽我兄弟の仇討ち
1193年(建久4年)、源頼朝が催した富士裾野の巻狩り。
曽我兄弟の仇討ちはその時に決行されました。
5月28日夜半、雷雨の中、河津祐泰の子・曽我十郎祐成と五郎時致の兄弟が、裾野に建ち並んだ宿舎に忍び込み、工藤祐経を殺害しました。
その後、十郎祐成は仁田忠常に討ち取られ、五郎時致は捕えられて処刑されています。
十郎祐成22歳。
五郎時致19歳。
十郎祐成の妾・虎御前は祐成の三七日の忌日に箱根権現の別当行実坊で法事を行った後、出家して信濃の善光寺へ向かったのだといいます。
(富士宮市)
(富士宮市)
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