別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


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2017年9月17日日曜日

鎌倉権五郎景政

 山車人形
(川名御霊神社の山車人形)


鎌倉権五郎景政は、相模国鎌倉郡村岡を本拠とした坂東八平氏の祖・村岡良文(平良文)の子孫。

秩父氏、上総氏千葉氏、中村氏、三浦氏鎌倉氏などが坂東八平氏に数えられます。


 村岡御霊神社


村岡御霊神社は、藤沢市宮前に鎮座する社。

村岡良文が京都の御霊宮を勧請して創建。

良文の館は村岡御霊神社の近辺にあったのだといいます。

景政も村岡御霊神社付近にあった屋敷で生まれ、そこに住んでいたのだと伝えられています。


 上御霊神社
(京都)


※鎌倉氏の系図は諸説あって定かなものではありません。


~良文・忠通・忠光三代の塚~
(藤沢市・二伝寺

 二伝寺良文塚

 二伝寺

 二伝寺


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~源義家と鎌倉景政~

 山車武者人形
(極楽寺熊野神社例大祭)


鎌倉権五郎景政には、16歳で源義家に従って「後三年の役」に出陣し、右目を射られながらも奮戦したという伝説が残されています。

『吾妻鏡』には「景政者源家之忠士爲也」(かげまさはげんけのちゅうしたるなり)と記録されてます。


 天王祭山車人形
(天王祭山車人形)


後三年の役出陣に際しては、鎌倉の大倉ヶ谷の自邸を義家に寄進し、自分は由比ヶ浜に新邸を建て、その地を「甘縄」と呼んだという説もあるようですが・・・

❓ ❓ ❓

 大倉幕府跡
(源頼朝の御所跡)


鎌倉の大倉郷には、源頼義が平直方から譲り受けた大倉館があったと伝えられています。

頼義が大倉館を取得したのは、平忠常の乱が鎮圧された1030年(長元3年)から間もない頃のことかと思われます。

『吾妻鏡』によれば・・・

鎌倉を東国支配の拠点とした頼義は、1063年(康平6年)、由比郷に石清水八幡宮を勧請しています(由比若宮)。

のちに鎌倉入りを果たした源頼朝が大倉に御所を構えた理由の一つには、頼義の旧跡だったということもあったようです。

さて・・・

鎌倉氏の大倉ヶ谷の屋敷についてですが、後三年の役が始まったのは1083年(永保3年)のこと。

頼義が1030年(長元3年)頃に鎌倉の地(どこからどこまでを指すのかわかりませんが・・・)を得てからは、鎌倉氏はその郎党として仕えていたものと考えられます。

大倉郷に頼義の子義家の屋敷があったというのは当然のことかもしれませんが、景政が寄進したのいうのはどうなのでしょうか???

大倉ヶ谷というのは大倉郷とは関係ないのかもしれませんが・・・

※大倉郷は十二所、二階堂、西御門、雪ノ下、浄明寺を含む広い地域を指していたようです。


 御霊神社
(鎌倉坂ノ下)


坂ノ下の御霊神社は、鎌倉権五郎景政の屋敷跡とも言われています。

景政が号したという「甘縄」は、甘縄神明神社付近と考える人が多いと思いますが、かつての甘縄は佐助や無量寺ヶ谷をも含むかなり広い地域だったようです。

おそらく坂ノ下も甘縄の一部だったのかと思います。


 甘縄神明神社


甘縄神明神社は710年(和銅3年)の創建と伝えられ、鎌倉最古の神社と言われています。

したがって、甘縄という地名の由来は甘縄神明神社によるものと思いますが・・・

鎌倉氏が本拠としたという甘縄との関係もあることから、甘縄神明神社の由緒については詳らかではないそうです。

景政が村岡の社を遷したという説も・・・


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~大庭御厨を伊勢神宮に寄進~

 大庭御厨
藤沢市西俣野


1104年(長治元年)頃に成立したという大庭御厨は、現在の藤沢市から茅ヶ崎市にまたがる相模国最大の寄進地系荘園。

鎌倉権五郎景政が先祖から受け継いだという大庭荘を開発したもので、『吾妻鏡』によると、1117年(永久5年)10月23日に伊勢神宮に寄進されました。

1144年(天養元年)には、源義朝大庭御厨の鵠沼郷に侵入し、大規模な収奪を行ったことでも知られています。

当時の大庭御厨の下司(管理者)は大庭景宗だったのだと伝えられています。

※景宗は、大庭景義・景親・景久兄弟の父。

※大庭氏については、鎌倉権五郎景政の子景継が大庭御厨を領したことから「大庭氏」を名乗ったという説もありますが、諸説あって詳細は不明です。


 皇大神宮
(藤沢市)

皇大神宮は、大庭御厨の総鎮守として崇敬を集めた社。


 御嶽神社
(藤沢市)

『吾妻鏡』によると・・・

1195年(建久6年)11月19日、大庭御厨俣野郷の大日堂に田畑が寄進されました。

大日堂の本尊は、鎌倉権五郎景政の時代に、伊勢神宮の式年遷宮で賜った古い柱でものだったそうです。

この大日堂というのが現在の御嶽神社だと伝えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~鎌倉氏の一族・大庭氏~

大庭氏は鎌倉氏の流れをくむ一族。

1156年(保元元年)の保元の乱で、大庭景義・景親の兄弟は源義朝に従属。

源為朝との合戦で景親は「鎌倉景政の末裔である」と名乗った伝えられていることなどから、一説には景政の曾孫とも言われていますが、上述のとおり定かなことは分かりません。

1180年(治承4年)の源頼朝の挙兵時には、景義は頼朝に味方しますが、景親は弟の景久とともに平家方に付き、景親は片瀬で処刑され、景久は加賀国で討死しています。


 神明大神宮
(茅ヶ崎市)

神明大神宮は、大庭景義の懐島館の跡にある社。


(横浜市戸塚区俣野町)

俣野観音堂は、大庭御厨の俣野郷を領した俣野景久の守護仏を祀る堂。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~鎌倉氏の一族・長尾氏~

長尾氏も鎌倉氏の流れをくむ一族。

鎌倉景明の子・景弘が長尾庄に住んだことが始まりだと伝えられています。

※一説によると景弘は鎌倉権五郎景政の玄孫とも言われますが、鎌倉氏・長尾氏の系図がまちまちであるので詳細は不明。


 御霊神社
(横浜市戸塚区)

長尾城址にある御霊神社は、長尾景弘の長子・為宗が村岡御霊神社を勧請して創建したのだと伝えられています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~鎌倉氏の一族・梶原氏~

梶原氏も鎌倉氏の流れをくむ一族。

鎌倉景通の子・景久が鎌倉郡梶原に住んだことが始まりだと伝えられています。


 梶原御霊神社


梶原の御霊神社は、石橋山の戦い源頼朝を助けたという梶原景時の創建と伝えられています。

※一説によると景時は鎌倉権五郎景政の曾孫とも言われますが、鎌倉氏・梶原氏の系図がまちまちであるので詳細は不明。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~大庭・長尾・梶原系図~


※鎌倉氏一族の系図は諸説あって定かなものではありません。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 御霊神社例大祭


9月18日は鎌倉権五郎景政の命日。

坂ノ下御霊神社例大祭です。


 面掛行列

 鎌倉検定



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