1190年(建久元年)、この年より、鶴岡八幡宮の放生会は2日間に分けて行われるようになります。
流鏑馬は、2日目の8月16日に行われました。
『吾妻鏡』によると・・・
この日の流鏑馬の射手のうち、具合が悪くなった者が出ました。
その時に大庭景義が・・・、
「1180年(治承4年)、石橋山で大庭景親に味方した河村三郎義秀は、囚人として景義が預かっております。
義秀は、弓馬の芸に優れた者です。
あの時に敵対した連中の殆どが許されましたが、義秀だけが深く沈んだままとなっております。
このような時に召し出してみてはいかがでしょう?」
と頼朝に申し上げました。
すると頼朝は・・・、
「その者は死罪に処すよう命じたはずである。
今、生きているというのは不思議な話だ。
しかしながら、神事であるので、早く召し出すように。
ただし、満足することができなければ、改めて死罪とする」
と命じ、義秀に流鏑馬を射させました。
頼朝が義秀の放った矢をみると、矢の長さは十三束、鏑は八寸もありました。
そこで頼朝は・・・、
「義秀は、弓矢の芸にうぬぼれて、景親に味方したことは、その罪を考えると、今でもとんでもないことである。
その腕で、三種類の的を射るように。
失敗すれば、すぐに死刑を執行する」
と命じます。
義秀は、その弓矢の芸を披露します。
そして、三尺・手挟・八的などの難しい的を見事に射抜き、頼朝を感心させました。
後日(9月3日)・・・
大庭景義が頼朝に、
「河村義秀は、打ち首にしましょうか?」
と申し上げます。
すると頼朝は、
「流鏑馬の褒美に許したのに、今さら何の罪にできるのだ」
と問います。
景義が申すには・・・
「義秀は、これまでは囚人でしたので景義が援助していましたが、囚人でない者を助けようがありません。
このままでは餓死してしまうでしょう。
殺してあげた方が義秀にとってはよいのではないでしょうか」
とのことでした。
頼朝は、大笑いして、相模国河村郷の所領を安堵したといいます。
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(山北町)
河村氏は、藤原秀郷の後裔で、波多野秀高が河村郷を本拠としたことに始まります。
2代目の河村義秀は、石橋山の戦いで源頼朝を苦しめた武将の一人。
富士川の戦い後、大庭景親とともに投降し、身柄は大庭景義に預けられていました。
山北町の室生神社の流鏑馬は、義秀が流鏑馬の妙技で頼朝から許されたという故事に因んで行われているもので神奈川県の無形民俗文化財。
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