鶴岡八幡宮の桜と梅2017/01/10 リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ 1月 10, 2017 年末に咲き始めてた流鏑馬馬場の早咲きの桜。 年末の花は年明けには散ってしまったようですが、改めて開花宣言という感じでしょうか。 こちらは白旗神社参道の梅。 だいぶ咲いてきました。 そして、源氏池畔の梅。 もうすぐ満開という感じです。 ・・・・・・・・・・・ リンクを取得 Facebook Twitter Pinterest メール 他のアプリ
藤原道長 vs 興福寺~源頼親・蓮聖・定澄と道長~ 8月 30, 2024 興福寺 興福寺 は藤原氏の氏寺ですが・・・ 藤原氏の全盛の時代の信仰の第一は天台宗や真言宗で興福寺ではなかったようです。 藤原道長 の時代には荘園を巡って対立関係にあったのだといいます。 道長は、源頼親を大和国司とし、興福寺の荘園拡大を抑制しようとしていたようです。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 源頼親は、1006年(寛弘3年)の春の除目で大和守となりますが・・・ 任国に着任する以前から、頼親に仕える当麻為頼と 興福寺 の蓮聖との間では、競田(どちらのものか争っている田)があったようです。 『御堂関白記』によると、6月、為頼が興福寺領池辺園預(荘官)を殴打(殺害?)。 これに対し、興福寺の蓮聖が三千人の僧を率いて為頼邸を襲ったのだといいます。 この事件に対し、 道長 は蓮聖に下手人を差し出すよう命じ、蓮聖の公請(朝廷から法会や講義に召されること)を停止しています。 興福寺側に非があると判断したようです。 参考までに、 藤原実資 の『小右記』には、為頼が何らかの事件を起こし、興福寺が事情を問いただそうとすると、為頼は自邸の財物を搬出した上で焼き払い、興福寺の乱行を訴えたのだとか・・・ 7月になると 興福寺 別当の定澄が 道長 のもとを訪れ、「正しい裁定がなされなければ、興福寺の者が大挙して都に押し寄せ、 土御門殿 や源頼親邸を襲う」と脅します。 そして、興福寺大衆数千人が入京する事態になりますが、道長は官吏に興福寺大衆を追い立てさせて退去させたようです。 興福寺大衆が退去した後、道長は、興福寺側の要求のうち、事件の実情を調査する実検使の派遣には応じましたが、頼親と為頼の解職には応じず、蓮聖に対する公請停止取消にも応じませんでした。 こうして、この事件は 道長 の全面的勝利に終わったのだとか。 参考までに、定澄は翌年の道長の御嶽詣に奉仕しています。 📎藤原道長の御嶽詣~彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?~ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 平安時代、寺社は仏や神の権威と武力を背景に、集団で訴えを起こしました(強訴)。 比叡山 の僧兵は 日吉大社 の神輿を奉じて強訴に及びましたが(神輿動座)、 興福寺 は 春日大社 の神体の神木を担ぎ出していたそうです(神木動座)。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 続きを読む
藤原道長の御嶽詣~彰子の男児出産を願っての金峯山参詣か?~ 9月 03, 2024 1007年(寛弘4年)8月11日、 藤原道長 は自ら書写した経を吉野の金峯山(山上の蔵王堂)に埋納しています。 当時、道長は様々な病に苦しんでいたようですので、厄除とも考えられますが・・・ 999年(長保元年)に12歳で 一条天皇 の女御として入内して中宮となった娘の 彰子 は20歳になっていました。 彰子の皇子出産を願って? 一条天皇 には彰子が入内した年に 藤原定子 が生んだ第一皇子の 敦康親王 がいましたが、定子が崩御した後は 彰子 が養母となって育てていました。 敦康親王 は彰子に愛情をもって養育され、賢い少年に成長します。 道長 も後見役となり、 源倫子 (彰子の母)も育児に関わっていたようですが、彰子が皇子を産むことができなかった場合に備えて奉仕していたようです。 敦康親王 を簡単に東宮(皇太子)にするわけにはいかない道長は、彰子の皇子出産を願って金峯山参詣(御嶽詣)を行ったのかもしれません。 ただ・・・藤原道長が埋納した「金銅藤原道長経筒」に記された願文には・・・ 📎金銅藤原道長経筒と道長の願い ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~金峯山は弥勒の浄土~ 吉野山 金峯山は、 吉野山 から山上ヶ岳に至る地。 道長 の時代は、末法思想が流行しはじめていた時代でした。 末法思想は、仏教の教えが廃れ、救われることのない世がくるというもの。 そういう思想の中で広がったのが、弥勒菩薩が現れて救ってくれるという弥勒信仰。 平安時代、金峯山は弥勒の浄土とされていたようです。 また、金峯山寺の本尊・蔵王権現は、釈迦如来・千手観音・弥勒菩薩の三尊が合体したものとされています。 道長 は弥勒菩薩を信仰していたといわれ、弥勒菩薩を本尊とする 園城寺 (三井寺)の 金堂 には、道長が奉納したと伝えられる弥勒菩薩像も安置されています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~道長の金峯山参詣~ 道長 は寛弘4年閏5月から室町の源高雅の邸宅で御嶽精進を始めます。 御嶽精進とは、金峯山参詣の前に50日から100日の間、身を清めること。 この間、巨大な磨崖仏(弥勒菩薩)を本尊とする笠置寺や 祇園社 ・ 賀茂社 にも参詣しているようです。 そして、8月2日、長男・ 頼通 や 源俊賢 らとともに金峯山を参拝するため京都を出発。 続きを読む
北条得宗家の滅亡~最後の得宗・北条時行~ 5月 24, 2011 1333年(元弘3年)5月22日、 新田義貞 の鎌倉攻めによって、得宗 北条高時 は 東勝寺 で自刃。 これにより鎌倉幕府は滅亡しますが、高時には嫡男・万寿と次男・亀寿がいました。 東勝寺跡 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~北条高時の嫡男・邦時~ 万寿=北条邦時は、五大院宗繁の妹と高時との間に生まれた子です。 鎌倉幕府の滅亡後、邦時は伯父の宗繁に託されますが、新田軍による北条一族の捜索は厳しく、匿っていた者も次々に誅殺されていきました。 それを見ていた宗繁は、邦時を 伊豆山 へ向かわせる一方で、邦時を裏切って新田軍に密告します。 伊豆山 へ向かっていた邦時は、途中で捕えられ処刑されたのだといいます(享年9歳)。 邦時を裏切った宗繁は非難され逃亡。 最期は誰からも見捨てられ、餓死したのだとか。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ~挙兵した次男・時行~ 亀寿=北条時行は、嫡男万寿の異母弟にあたります。 時行は、鎌倉幕府の滅亡後、諏訪盛高(頼重)に連れられ信濃に逃れます。 そして、1335年(建武2年)7月、信濃で挙兵して鎌倉に攻め込みました( 中先代の乱 )。 護良親王墓 時行が鎌倉を攻めたことにより、成良親王を奉じて鎌倉を守っていた 足利直義 は敗走します。 その際、直義は東光寺(現 鎌倉宮 )に幽閉していた 護良親王 を殺害しています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 7月25日に鎌倉に入り、一時鎌倉を占領した時行でしたが、8月19日には 足利尊氏 に攻められ敗走しています。 勝長寿院跡 時行を担ぎ出したのは諏訪頼重でした。 足利尊氏 が鎌倉を奪還すると、時行は鎌倉を逃れますが、頼重は 勝長寿院 で自刃したと伝えられています。 ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 足利尊氏 が京に室町幕府を開くと、朝廷は南北に分かれます(南北朝時代)。 鎌倉を逃れた時行は、のちに南朝方に属して反幕勢力の一員となっています。 1352年(文和元年・正平7年)、 観応の擾乱 後、 新田義貞 の遺児義宗と義興が挙兵すると、時行も挙兵します。 しかし、 足利尊氏 ・基氏父子によって捕らえられ、翌年、 龍ノ口 で処刑されました。 時行が死んだことによって 北条得宗家 は完全に滅亡します 続きを読む