別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2013年11月8日金曜日

安田義定の梟首と梶原景時~河口湖~

『吾妻鏡』によれば、1194年(建久5年)8月19日、甲斐源氏の安田義定が反逆を企てたとして梟首されました。

どこで梟首されたかは『吾妻鏡』には記されていませんが、室町時代の歴史書『鎌倉大草子』によると、追討使となったのは梶原景時加藤景廉で、義定は甲州市(旧塩山市)の放光寺で自害したといいます。

※その他様々な説があるようです。

安田氏滅亡後の所領は加藤景廉に与えられたといいます。

ただ、実質上は梶原景時の八男景則が治めていたといわれ、これが甲斐国梶原氏のはじまりとなったと伝えられています。

甲斐国梶原氏は現在にも継承され、富士河口湖町には梶原を名乗る世帯が約240あるといいます。

そのため、梶原景時の末裔が集まる河口湖畔には「梶原景時像」が建てられています。


河口湖畔の梶原景時像



参考までに・・・

『吾妻鏡』によると安田義定が梟首される前年11月28日、永福寺の供養のときに義定の子義資は、女官に恋文を投げ入れて首を刎ねられています。

このとき、義資のことを源頼朝に告げ口したのは梶原景時であり、処刑したのは加藤景廉だったということです。

こうしたことに義定は不満を持っていたといいます。

義定が梟首された翌日には、義定の家来5人が名越で処刑されています。

その恩賞として和田義盛が新たな領地を得ているようです。

それがどこなのかわかりませんが・・・。




河口湖


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