聖弘は義経と師檀の関係にあって、義経のために祈祷していたといいます。
鎌倉に来た聖弘は小山朝光に預けられていましたが、3月8日、頼朝は直接の聖弘に面会します。
そして・・・
「義経は天下を乱す凶臣で、その行方をくらまし、朝廷からは処刑するよう求められている。
そのため、天下の人々が皆義経に従わないでいるのに、あなただけが義経のために祈祷を行っている。
しかも、義経に同意して何か企んでいるという噂も耳にするが、それはどうしたことか」
と尋問すると、
聖弘は・・・
「義経があなたの代官として平家を追討するときに、義経とは祈祷の約束をしたので、それ以来誠意をもって祈祷を続けておりました。
これが報国の志ではないと言われるのでしょうか。
また、義経が関東から厳しく咎められて行方をくらましたとき、師檀の関係のよしみから奈良に来ましたので、一時匿い、頼朝様と和解するよう諫めた上で、下法師らをつけて伊賀国へ送り出しました。
その後は音信不通です。
祈祷は謀叛を祈ってのことではなく、義経を諫めて謀叛の心を宥めるもので、罪に問われるものではありません」
と答えました。
さらに・・・
「関東の今の無事は義経の武功によるものです。しかし讒言を聞き入れて御恩と奉公の関係を忘れ、恩賞の地を取り上げてしまえば、逆心を抱くのは当然のことです。
早々に義経を呼び返して和解し、兄弟で水魚の交わりをする事が国を治める方法です。
これは義経に味方して申したのではなく、天下の平穏を考えてのことです」
と答えました。
この聖弘の態度に感心した頼朝は、さっそく勝長寿院の供僧職を与え、関東繁栄の祈祷を命じたといいます。
興福寺は藤原氏の氏寺で、仏師運慶が活動拠点としていました。
多くの僧兵を抱えて強大な力を持ち、源頼朝が鎌倉に武家政権を創設した後も大和国を支配していたため、鎌倉・室町時代を通じて大和国に守護を置くことはできませんでした。
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