『吾妻鏡』によれば・・・
1193年(建久4年)5月8日、源頼朝は「富士裾野の巻狩」のため鎌倉を発ちます。
従った御家人は・・・
北条義時、足利義兼、山名義範、小山朝政、小山宗政、結城朝光、里見義成、佐貫廣綱、畠山重忠、三浦義澄、三浦義村、千葉胤正、三浦義連、下河邊行平、稲毛重成、和田義盛、榛谷重朝、阿曽沼廣綱、工藤祐経、土屋義淸、梶原景時、梶原景季、梶原景高、梶原景茂、梶原朝景、梶原景定、糟谷有季、岡部三郎、土岐三郎、宍戸家政、波多野義景、河村義秀、加藤太光員、加藤次景廉、愛甲季隆、海野幸氏、藤澤淸親、望月重隆、小野寺道綱、市河行房、沼田太郎、工藤景光、工藤行光、祢津宗直、中野助光、佐々木盛綱、佐々木義淸、澁谷重國、小笠原長淸、武田信光など。
他にも射手が多数集まり数え切れなかったといいます。
曽我の里から見える富士
5月15日、富士裾野に到着。
頼朝には南向きの五間の仮屋が建てられ、御家人の宿舎も同じように軒を並べて建てられました。
この日は、殺生禁断の日であったため終日宴会。
5月16日、頼朝の嫡男頼家が愛甲季隆の指示により初めて鹿を射とめます。
頼朝は大いに喜び、狩りを打ち上げにして「矢口祭」(やぐちのまつり)が行われました。
「矢口祭」は、狩りのはじめのときなどに三色の餅を供えて山の神を祭り射手を饗応することで、北条義時が黒・赤・白の三色の餅を献上しています。
愛甲季隆の五輪塔
(宝積寺・厚木市)
愛甲季隆の宝篋印塔
(円光寺・厚木市)
愛甲季隆館址
5月22日、頼家が鹿を射とめたことを鎌倉の北条政子に知らせるために使者となった梶原景高が戻ってきます。
景高は勇んで政子に報告しましたが・・・
「武将の嫡子が原野の鹿や鳥を獲るのは珍しいことではない。
安易に使いをよこすのは、かえって煩わしいだけだ」
と言われたのだそうです。
5月27日、狩りの最中に大鹿が現れます。
弓の名手といわれる工藤景光がこの大鹿を狙って矢を放ちますが当たりません。
二の矢、三の矢も外しました。
この時景光は・・・
「十一歳の頃から狩猟の技を自慢としていました。
七十余歳のこれまで狙った獲物を外したことはありません。
それなのに今はぼうっとして妙な気分になる始末。
きっと、あの鹿は山の神の乗り物である神鹿だったのでしょう。
そして、私の寿命は縮まってしまうでしょう」
と言ったといいます。
その夜、景光は発病してしまいます。
頼朝は狩りを止めて鎌倉へ帰ることを考えたようですが、宿老達に引き止められそのまま続けることとしました。
5月28日夜半、雷雨の中、伊東祐親の孫の曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が、裾野に建ち並んだ宿舎に忍び込み、工藤祐経を殺害しました。
不意をつかれた宿舎の者たちは仰天し、駆けつけようにも雷雨のため灯りもままならない有様だったといいます。
兄の十郎祐成は仁田忠常に討ち取られますが、弟五郎時致は頼朝の宿舎をめがけて突進します。
頼朝も太刀をとり立ち向かおうとしますが、そばにいた大友能直が留めました。
その間、小姓の五郎丸が五郎時致を取り押さえています。
騒ぎが静まった後、和田義盛と梶原景時が工藤祐経の死骸を確認しました。
この騒動で多くの怪我人が出ました。
平子野平右馬允有長、愛甲三郎季隆、吉香小次郎、加藤太光員、海野小太郎幸氏、岡部弥三郎、原三郎清益、堀藤太、臼杵八郎。
そして宇田五郎以下が殺されています。
伊東祐親像(伊東市)
御所五郎丸屋敷址(鎌倉市)
5月29日、庭に召し出された五郎時致の前に頼朝が現れます。
そして狩野介宗茂、新開荒次郎に命じて夜討ちの本意を尋問させます。
しかし時致は・・・
「祖父の伊東祐親が罰せられてから子孫は落ちぶれてしまい、おそばに近づくことも許されなかったが、最後の所存を申し上げるので、伝言は無用。
御所様に直接お話し申し上げるから早くそこを退いていろ!」
と睨みつけて言ったといいます。
頼朝は思うところがあったらしく、時致の話を直接聞くことにしました。
「工藤祐経を討ったのは、父が殺された恥を雪ぐ(そそぐ)ためです。
兄祐成が九歳、時致が七歳の頃からその事を忘れる事は有りませんでした。
頼朝様の御前に推参いたしましたのは、工藤祐経が可愛がられ、祖父祐親は嫌われておりました。
その恨みがないわけでもありませんでしたので、
お会いし、その事を申し上げて自害するつもりでした」
これを聞いていた者は皆感動したといいます。
そして、仁田忠常が兄祐成の首を見せると
「兄の首に間違いありません」
と答えたといいます。
頼朝は時致の命を助けようと考えたようですが、工藤祐経の遺児犬房丸が泣いて訴えたので、時致を引き渡し梟首させています。
曾我兄弟の像
(城前寺・小田原市)
曾我兄弟は、河津祐泰(伊東祐親の子)の子達。
河津祐泰は、1176年(安元2年)10月、伊豆国で催された狩りの帰路、伊東祐親との間で所領問題を抱えていた工藤祐経に襲われ命を落としました。
5月30日、差し出させた祐成、時致兄弟の母への手紙には、子供の頃から父の仇討ちを果たそうと欲していたことが書かれていました。
頼朝は、涙を拭いながらこれを読み、永く文庫に納めて置くように命じています。
6月1日、十郎祐成の愛人の大磯の遊女・虎を呼び出して尋問していますが、無罪放免されています。
また、曾我兄弟の弟(僧)について、工藤祐経の妻子は兄弟と同じような処分を望んでいたようですが許されています。
法虎堂(大磯・鴫立庵)
虎の19歳の木像を安置。
化粧井戸(大磯)
虎が使ったという井戸。
6月3日、常陸国久慈郡の連中が、曾我兄弟の夜討に恐れを抱いて逃げたため、領地を没収されています。
6月5日、曾我兄弟の事件を聞いた常陸国の八田知家は、現場へ駆けつけようとします。
その時悪だくみを思いつき、同じく常陸国の多気義幹(たけよしもと)へ使いを出しました。
「八田知家が軍勢を集め、多気義幹を討とうとしている」と。
そのため多気義幹は防戦の準備を始め、城に立て籠もりました。
その後、八田知家は再び多気義幹へ使いに出しています。
その使いが多気義幹に伝えたのは・・・
「富士野の旅館で乱暴狼藉があったと噂ですので、同道願いたい」
というものでした。
しかし、多気義幹は「思うところがあるので同道できません」と答えたといいます。
そして義幹は、さらに防備を固めたといいます。
6月7日、頼朝が鎌倉へ帰ります。
曾我祐信が供をしていましたが、途中で供を免除しました。
さらに、曾我庄の年貢も免除し、曾我兄弟の菩提を弔うように言ったといいます。
城前寺(小田原市)
曾我兄弟の菩提所
6月12日、八田知家が多気義幹の謀叛を訴えています。
6月18日、十郎祐成の愛人・虎が、祐成の三七日の忌日に箱根権現の別当行実坊で法事を行っています。
その後出家して信濃の善光寺へ向かいました。
箱根権現(神社)
曾我兄弟と虎の墓(箱根町)
6月22日、八田知家の訴えによって呼び出された多気義幹が参上しました。
八田知家の訴えは、
「先月の曾我兄弟の乱暴狼藉を今月の4日に聞き、すぐに駆けつけようと思い、多気義幹にも同道を呼びかけましたが、
義幹は兵を集め籠城し、叛逆を企てました」
というものでした。
多気義幹は弁解できず、常陸国筑波郡、南郡、北郡などの領地が没収され、身柄は岡辺泰綱に預けられました。
没収された所領は、一族の馬場資幹(ばばすけもと)に与えられています。
※八田知家と多気義幹は所領が隣接していて、かねてより対立していたそうです。
7月2日、曾我兄弟の弟(大内義信の養子・越後国国上山の僧)が鎌倉に到着しますが、甘縄辺りで自害しました。
『吾妻鏡』が「富士裾野の巻狩」と「曾我兄弟の仇討ち」について語っているのはこんなところでしょうか・・・。
しかし、南北朝時代に成立したという『保暦間記』によれば・・・
曾我兄弟による夜討ち事件は大混乱を招き、鎌倉には「頼朝が討たれた」という情報が伝わります。
その誤情報を聞いて嘆く政子を頼朝の弟範頼が「私がおります」と慰めました。
この発言が頼朝への謀叛の疑いを招いたといいます。
その事を頭に入れて『吾妻鏡』を読むと・・・
8月2日、範頼は頼朝に起請文を書いています。
しかし、その起請文には「三河守源範頼」と書かれていました。
頼朝は範頼が源姓を名乗ったことに怒ります。
8月10日、当麻太郎という範頼の家人が頼朝の寝所に忍び込み捕らえられました。
頼朝の真意を確かめるためだったようですが、頼朝の範頼に対する疑いは深まったようです。
8月17日、範頼が伊豆国の修禅寺に流されました。
当麻太郎は薩摩国へ流されています。
『吾妻鏡』には、修禅寺に流された後の範頼について語られていないようですが、範頼はその後間もなく誅殺されたといいます。
源範頼の墓(修善寺)
8月18日、範頼の家来が武器を手入れして浜の宿館に立て籠もったとして、結城朝光、梶原景時、仁田忠常らが差し向けられます。
8月20日、曾我兄弟の同腹の兄京小次郎が範頼に連座したとして誅殺されています。
兄弟の仇討ちと範頼・京小次郎は何か関連があるのでしょうか・・・。
8月24日、大庭景義と岡崎義実が出家しています。
この2人、曾我兄弟の事件に何らかの関与があったのではないかという説もあるようです。
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