1184年(寿永3年)1月20日、木曽義仲は、源頼朝が派遣した範頼と義経に攻められ近江国粟津で討死しました。
『吾妻鏡』によれば、
頼朝は、義仲の嫡子:清水冠者義高(木曽義高)を殺すことに決めます(義高は、頼朝の娘大姫の許嫁です。)。
頼朝は、このことを近しい者に仰せ含めますが、それを聞いていた女房らによって内々に大姫に知らされます。
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~大姫、義高を逃がす~
~大姫、義高を逃がす~
1184年(元暦元年)4月21日の夜明け前、大姫は義高に女装をさせ、大姫の女房達が義高を囲んで屋敷から出しました。
馬は、他の場所に隠してありました。
馬蹄には真綿が巻かれ、蹄の音を人に聞かれないようにしてあったといいます。
義高の寝床には、海野小太郎幸氏が臥し、日が昇ると、双六をして義高がいるふりをしていました。
しかし・・・
晩になってばれてしまいました。
怒った頼朝は、幸氏を捕らえ、堀親家以下の者に義高を見つけ出し討ち取るよう命じます。
大姫は、あわてふためき、魂が消えてしまうほどだったといいます。
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~義高が誅殺される~
~義高が誅殺される~
それから5日後の4月26日、堀親家の郎従藤内光澄が戻り、入間河原で義高を誅殺したことが報告されます。
そのことを知った大姫は嘆き悲しみ、水も喉を通らなくなりました。
母北条政子も大姫の心中を察して、義高の死を嘆き悲しみ、御所中の多くの男女が悲しみにひたったといいます。
(常楽寺)
常楽寺裏山の木曽塚は、木曽義高の首塚と伝えられています。
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~政子、藤内光澄を斬罪に処す~
~政子、藤内光澄を斬罪に処す~
その後大姫は、病床に伏し、日毎に憔悴していきました。
6月27日、政子は、大姫が病気になったのは義高を殺した藤内光澄の配慮が足りなかったとして斬罪に処したと伝えられています。
※大姫は病気が治らないまま、1197年(建久8年)7月14日にこの世を去っています。
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