別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2012年3月11日日曜日

まんだら堂やぐら群・・・名越切通

鎌倉七口の一つ名越切通は、古くは日本武尊が東夷征伐のために通った古東海道筋ともいわれています。

名越切通は、「北条氏によって鎌倉防衛のための施設として整備された」と考えられていたようですが・・・

とくに800メートルにも及ぶ「大切岸」(おおきりぎし)は、三浦氏の攻撃に備えるために築かれた城壁とされてきました。

しかし、平成14年度の発掘調査では、「石切場」だったことが判明し、石の切り出しが行われた結果、現在のような城壁のような姿が残されたのだということです。

そういえば、周辺にも石を切り出したような跡がたくさんあります。

(参考:伝説の古道:名越切通


「まんだら堂やぐら群」の入口


名越切通の北の尾根には、「まんだらどう」という地名が残されています(逗子市小坪の字名です。)。

そこは、約150穴の中世の「やぐら群」が所在する一大葬地です(「まんだら堂やぐら群」)。









展望台からの見たやぐら群


展望台からの景色。


かつて、「まんだらどう」には、供養堂としての「曼荼羅堂」があったものと考えられています。

その「曼荼羅堂」は、浄土信仰の流行とともに建てられた浄土的な堂であったとも、日蓮宗に関係する堂であったともいわれているようですが、定かなことはわからないようです。


南無妙法蓮華経の碑

ただ、日蓮は、1254年(建長6年)、名越切通を越えて鎌倉に入り、松葉ヶ谷に草庵を結んだといわれています。

名越切通の鎌倉側には、その草庵跡に建てられたと伝えられる安国論寺妙法寺長勝寺といった寺院が建ち並んでいます。

反対の逗子側には、松葉ヶ谷法難の折、日蓮が避難した場所に建てられたという「お猿畠法性寺」がありますので、日蓮宗のお堂だったのかもしれません。


石廟


「まんだら堂やぐら群」の北東の鎌倉市域には、鎌倉時代後期から南北朝期のものと推察される2基の石廟が残されています(鎌倉市指定文化財)。

鎌倉時代には、一般的に木造の墳墓堂が造られましたが、石造の墳墓堂は珍しく、他に見当たらないものなのだそうです。

一大葬地であった「まんだら堂やぐら群」にも関係のある石廟なのでしょうか・・・?


「まんだら堂やぐら群」は、交通の要路としての遺跡「名越切通」とともに国の史跡に指定されています。


鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html


よりともジャパン.com