名越切通は、「北条氏によって鎌倉防衛のための施設として整備された」と考えられていたようですが・・・
とくに800メートルにも及ぶ「大切岸」(おおきりぎし)は、三浦氏の攻撃に備えるために築かれた城壁とされてきました。
しかし、平成14年度の発掘調査では、「石切場」だったことが判明し、石の切り出しが行われた結果、現在のような城壁のような姿が残されたのだということです。
そういえば、周辺にも石を切り出したような跡がたくさんあります。
(参考:伝説の古道:名越切通)
「まんだら堂やぐら群」の入口 |
名越切通の北の尾根には、「まんだらどう」という地名が残されています(逗子市小坪の字名です。)。
そこは、約150穴の中世の「やぐら群」が所在する一大葬地です(「まんだら堂やぐら群」)。
展望台からの見たやぐら群 |
展望台からの景色。 |
かつて、「まんだらどう」には、供養堂としての「曼荼羅堂」があったものと考えられています。
その「曼荼羅堂」は、浄土信仰の流行とともに建てられた浄土的な堂であったとも、日蓮宗に関係する堂であったともいわれているようですが、定かなことはわからないようです。
南無妙法蓮華経の碑 |
ただ、日蓮は、1254年(建長6年)、名越切通を越えて鎌倉に入り、松葉ヶ谷に草庵を結んだといわれています。
名越切通の鎌倉側には、その草庵跡に建てられたと伝えられる安国論寺、妙法寺、長勝寺といった寺院が建ち並んでいます。
反対の逗子側には、松葉ヶ谷法難の折、日蓮が避難した場所に建てられたという「お猿畠法性寺」がありますので、日蓮宗のお堂だったのかもしれません。
石廟 |
「まんだら堂やぐら群」の北東の鎌倉市域には、鎌倉時代後期から南北朝期のものと推察される2基の石廟が残されています(鎌倉市指定文化財)。
鎌倉時代には、一般的に木造の墳墓堂が造られましたが、石造の墳墓堂は珍しく、他に見当たらないものなのだそうです。
一大葬地であった「まんだら堂やぐら群」にも関係のある石廟なのでしょうか・・・?
「まんだら堂やぐら群」は、交通の要路としての遺跡「名越切通」とともに国の史跡に指定されています。
鎌倉手帳
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