別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2012年2月11日土曜日

蒙古襲来前の内乱・・・北条時宗と二月騒動

「二月騒動」は、我が国が蒙古襲来の危機にあった時期に起こった北条氏の内紛です。


八代執権北条時宗の異母兄時輔は、正妻の子でなかったため、五代執権北条時頼の長子でありながら、家督を継ぐことができませんでした。

「二月騒動」が起こった当時、時輔は、京都の六波羅探題南方という要職にありましたが、密かに謀叛を企てていたと伝えられています。


それを察知した時宗は、1272年(文永9年)2月11日、時輔の謀叛に加担したとみられる名越時章と名越時教の兄弟を大蔵頼季に殺害させています。

その4日後の15日早暁、六波羅探題北方の北条義宗のもとに鎌倉からの早馬が到着すると、義宗はすぐさま南方の時輔を襲撃し殺害しました。


※一説には、時輔は逃れて行方知れずになったともいいます。

※騒動後、名越時章は無罪と言うことが判明し、大蔵頼季ら5人の討手が誅されています。


「二月騒動」の真相は不明ですが、単純な北条一門の権力争いから起こった内乱ではなく、時宗にとっては、蒙古襲来を前にして、得宗権力の強化という課題がありました。

(※反逆には常に警戒し、また、常に先手を打って対処しなければならなかったものと考えられているようです。)


北条時宗


この「二月騒動」の知らせを、流されていた佐渡で受けた日蓮は、「さきに予言した二難のうち、内乱が起こった。残るは外敵の侵入」と言ったといいます。

日蓮は、1260年(文応元年)、北条時頼に提出した『立正安国論』の中で、「自界叛逆難」と「他国侵逼難」を予言していました。

参考:立正安国論~鎌倉と日蓮~


 鎌倉手帳



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