前年12月27日、相模川の橋供養にのぞみ、その帰途、落馬したのが死因と伝えられていますが、詳しい事は不明です。
源頼朝墓への石段 53歳で亡くなった頼朝の年齢と同じ段数。 |
晩年の源頼朝は・・・
1195年(建久6年)、東大寺の大仏殿の落慶供養に参列するため上洛します。
その際に、大姫の入内運動を行いますが、頼朝が接近したのは、これまで協力体制を築いてきた関白九条兼実ではなく、反幕派の丹後局と源通親でした。
(※すでに兼実が娘を入内させていたためといわれていますが・・・)
翌1196年(建久7年)11月には、通親の讒言によって兼実が失脚しますが(建久7年の政変)、頼朝はこれを黙認していたといいます。
しかし・・・
1197年(建久8年)7月14日、大姫が亡くなり、頼朝の夢は絶たれました。
そして・・・
1198年(建久9年)正月、通親の養女が生んだ土御門天皇が即位します。これにより通親は天皇の外戚として権勢を強めました。
(参考:源頼朝の失政か?・・・大姫入内問題)
源頼朝顕彰碑 |
頼朝の顕彰碑には、
「君出でて民もしづまり九重の塵もをさまる世とはなりにけり」
と刻まれています。
ただ、晩年の頼朝の行動は、親幕派の九条兼実を失脚させ、反幕派の源通親の権力を増大させてしまいました。
清和天皇から出た源氏。やはり頼朝も「貴族」の世界から抜け出すことができなかったということなのでしょうか?
源頼朝墓 |
現在の頼朝の墓塔は、1779年(安永8年)に薩摩藩の島津重豪が建てたもので、島津家の紋「丸に十字」を目にすることができます。
この場所は、1189年(文治5年)に頼朝が建てた持仏堂があった場所で、頼朝はそこに葬られたと伝えられています(持仏堂は、頼朝の死後「法華堂」と呼ばれました。)。
(参考:源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~)
白旗神社 |
頼朝墓の下にある白旗神社では、1月13日に例祭が執り行われ、鎌倉に武家政権の都を創設した頼朝の遺徳をたたえる祝詞が奏されます。
(参考:白旗神社例祭~源頼朝の命日~)
鎌倉手帳
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