別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年11月4日金曜日

梶原景時館址・・・一宮館

相模国一宮(寒川町)は、梶原景時の所領だった地です。

1199年(正治元年)11月、結城朝光を讒言したことで、御家人66名の連判状を提出された景時は、一族とともに一宮に退きます。


梶原景時館址(一宮館址)

「梶原景時館址」の石碑が建てられている場所は、梶原景時の一宮館の物見があったところで、当時は一段高くなっていたと伝えられています。


天満宮

石碑の背後の祠は天満宮です。梶原氏の風雅をたたえ里人が創建したものといわれています。


梶原景時像(大田区万福寺

鎌倉を追放された翌年正月20日、景時は、密かに一宮を発って上洛しようとしますが、駿河国清見関で在地武士と合戦となり、一族とともに討死しました。

(参考:梶原景時の変  梶原景時の変(okadoのブログ)


梶原景時一宮館址の案内図

景時一宮館は、かなり広大な面積だったと考えられています。


伝梶原氏一族郎党(七士)の墓

「梶原景時館址」の石碑の近くには、梶原氏一族郎党(七士)の墓と伝えられている墓石群があります。

駿河国清見関で討死した梶原景時一族郎党を、一宮館で留守をしていた家族、家臣が弔ったものと伝わっているそうです。

また一説には・・・

景時の夫人を守って信州に逃れていた家臣七人は、世情が変わったのみて、鎌倉に梶原氏の復権・所領安堵を求めます。

しかし、許されることはなく、七士はその場で自害して果てたといいます。

この墓は、その七士を祀ったものともいわれているようです。


一宮館の内堀の名残といわれる水路

梶原氏一族郎党(七士)の墓の背後の水路は、一宮館の内堀の名残といわれています。


梶原景季

梶原景季は、景時の長男。

宇治川の戦いの折の佐々木高綱との先陣争いで知られている武将です。

(参考:宇治川の先陣争い~高綱の生月と景季の磨墨~



 梶原景時の墓
(東京大田区・万福寺)

 梶原景時の墓
(鎌倉市)


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