別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年9月8日木曜日

宇治川の先陣争い~高綱の生食と景季の磨墨~

1184年(寿永3年)、源頼朝は、木曽義仲を討つため、弟の範頼義経を上洛させます。

そして、宇治川の戦いでは、源頼朝から、「生食」(いけづき)を与えられた佐々木高綱と「磨墨」(するすみ)を与えられた梶原景季の先陣争いが繰り広げられます。


「生食」と「磨墨」とは、ともに頼朝が可愛がっていた名馬です。


鳥山の馬頭観音堂
横浜市港北区鳥山は、佐々木高綱の所領でした。
名馬「生食」は、鳥山で余生を送ったといいます。
https://www.yoritomo-japan.com/toriyama-kannondo.htm


鳥山八幡宮
(高綱の館)


~「生食」を所望した景季と、「生食」を盗んだと言った高綱~


梶原景季は、頼朝に「生食」を所望しますが、

「この馬は万が一の時、頼朝が甲冑を着けて乗る馬であるから、磨墨ではどうか。磨墨も生食に劣らない名馬であるぞ」

といって「磨墨」を与えたといいます。


ところが・・・

佐々木高綱が出陣する際に頼朝のところへ挨拶に来ると、

「生食を所望する者は大勢いるが・・・」

といって「生食」を高綱に与えてしまいます。

感激した高綱は、

「この御馬で宇治川の先陣を承るつもりです。
もし私が討死したとお聞きになったときは、先陣は他の者に渡したとお思い下さい。

生きているとお聞きになられたならば、
先陣は確かに高綱が切ったとお思い下さい」

といって頼朝の前を下がったといいます。


その後、進軍する追討軍の中で、高綱が「生食」に乗っていることを知った景季は、「頼朝から恥辱を与えられた」として、高綱を殺して自分も自害しようと考えます。

しかし、高綱が機転を利かせて、「宇治川を渡るためには、屈強な馬が必要だったので、頼朝様の生月を盗んで参上した」と言うと、

景季は、「そうであれば、景季も盗んでくればよかった」と言って笑ったといいます。


万福寺の「磨墨」の像
東京大田区の万福寺は、梶原景時の菩提寺といわれています。
門前には、名馬「磨墨」の像が建てられています。
※景時は景季節の父。
https://www.yoritomo-japan.com/manfukuji.htm


~宇治川の先陣争い~


宇治川の戦いは、1月の事でしたので、雪解け水もあって水位が上昇していました。

そこで源義経は、

「淀か一口へ回るか、それとも水勢の収まるのを待つか」

と考えていると、畠山重忠

「瀬踏みをいたしましょう」といって、五百余騎馬の轡を並べていました。


すると、平等院北東、橘の小島が崎から、武者二騎が馬を激しく走らせて出てきます。

梶原景季佐々木高綱でした。

このとき景季は、高綱より一段ほど先に進んでいたといいます。

高綱は、

「腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなさい。」

景季にいうと、

景季は、左右の鐙を踏みゆるめ、手綱を「磨墨」のたてがみに投げかけ、腹帯を解いて締め直しました。

その間に高綱は、景季を追い抜いて、「生食」を川へと打ち入れます。

騙されたと感じた景季も、すぐに「磨墨」を川へ打ち入れ、

「佐々木殿、高名を上げようと思って失敗なさるな。水の底には大綱が仕掛けてあるようだぞ」

と声をかけますが、

高綱は、太刀を抜いて、「生食」の足にかかった大綱を打ち切りながら進み、「生食」も宇治川の流れを気にせず真一文字に渡り、向かいの岸へ乗り上げたといいます。

そして、

「我こそは宇多天皇から九代目の後胤、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣」と名乗ったそうです。

一方、景季の「磨墨」は、川の流れに押し流され、はるか下流から岸に上がったといいます。


こうして、宇治川の戦いは、佐々木高綱が先陣を切ったということです。


宇治川先陣の碑


御馬冷場
鎌倉浄明寺にあるやぐらです。
名馬「生食」と「磨墨」の足洗い場だったという伝承があります。
https://www.yoritomo-japan.com/yagura-ouma.htm

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