檀那俗弟子の説法のためといわれています。
しかし、その檀那俗弟子とは・・・
北条時頼なのか?永平寺を建てたという波多野義重なのか?ということははっきりとしていないようです。
鎌倉での道元は、事実上の最高権力者、執権北条時頼の教化に努力します。
道元のなかには、教化することで「日本の政治を変える」という考えがあったのだといわれています。
しかし・・・
道元の思い・・・「仏法とは何か」ということは時頼には伝わらなかったのでしょうか・・・?
時頼は、寺を建てて道元を開山に迎えようとしますが、道元はその要請を断って、翌年永平寺に帰りました。
鎌倉の滞在は、約半年間という短い期間でした。
その後、時頼は永平寺への寄進を考え、道元の弟子玄明に「寄進状」を持たせます。
時頼の寄進状を持ち帰って喜んでいる玄明をみた道元は、玄明を即刻追放したといいます。
また、玄明が坐禅をしていた僧堂の床と、その下の土を捨てさせたともいわれています。
これは、「名誉や地位を求めるという私欲に走ることで、真の仏法をゆがめてしまう」ということを他の修行僧にも教え込むためだったといわれています。
のちに、道元は後嵯峨上皇より、紫の法衣を賜りますが、一生その法衣を纏うことはなかったといいます。
政治権力より仏法を優先した道元らしい話です。
道元
死期の近づいたことを知った道元は・・・
「仏法を修学して、釈迦のようになり、衆生を救わん」といったといいます。
病の重くなった道元は、波多野義重のすすめで京都で療養することになりますが、1253年(建長5年)8月28日入寂しました。
54歳でした。
(京都:建仁寺)
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