別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年5月18日水曜日

復興された英勝寺山門

英勝寺の山門は、1643年(寛永20年)8月16日、水戸家初代の徳川頼房の子松平頼重(讃岐高松藩主)によって建立されたといいます。




しかし、山門は関東大震災で倒壊してしまいます。

資産家に買い取られた山門は、長らく山王ヶ谷の私有地に移築されていましたが、その土地が宅地開発されることになったため、2001年に英勝寺が買い戻しました。

そして、2007年より復興が開始され、工事が本年完了し、5月16日に落慶法要が営まれています。



山門の部材からは、後水尾上皇宸筆の扁額が発見されたそうです。




山門を建立した松平頼重は、水戸藩主徳川頼房の長子でしたが、

頼房は、尾張徳川家・紀州徳川家に男子がいなかったのに遠慮し、懐妊時に堕胎を命じたそうです。

堕胎せずに済んだのは英勝寺を建立した英勝院の助けがあったからだと伝えられています。




頼重の同母弟は、『新編鎌倉志』を編纂した徳川光圀です。

頼房の世継ぎとされ二代水戸藩主となりますが、光圀も正室の子ではなかったことから懐妊時に堕胎を命じられたといいます。




1642年(寛永19年)、頼重は高松藩主となります。その年の8月、英勝院が亡くなり、英勝寺に葬られました。


英勝院の墓
徳川光圀が建てたという祠堂の裏にあります。
煌びやかな祠堂には英勝院の位牌が安置されているそうです。


英勝院は、太田道灌の子孫で徳川家康の側室となります。

「お勝の局」と呼ばれ、30歳のときに家康の六女市姫を出産しますが四歳で夭折してしまいます。

不憫に思った家康は水戸家初代となる徳川頼房の養母としたそうです。

家康の死後「英勝院」と称し、徳川家光より扇ヶ谷の太田道灌の旧跡を賜り菩提寺となる英勝寺を建立しました。

初代住職には頼房の娘玉峯清因が迎えられています。


英勝寺仏殿
本尊は徳川家光寄進の阿弥陀三尊像。
運慶作と伝えられています。

英勝院が亡くなった翌年の8月には、頼重と光圀が英勝寺を訪れています。

光圀は、兄頼重の子綱條を養子に迎え水戸藩を継がせています。光圀の子頼常は兄頼重の養子となり高松藩を継ぎました。


山門蟇股の彫刻





仏殿側からの山門
山門は、禅宗様を基本とした三間二階二重門です。
神奈川県の重要文化財に指定されていますが、
復興前の部材の段階で指定された珍しい例として知られています。

山門の上層には、釈迦三尊と十六羅漢が安置されています。

キショウブが咲いていました。

三霊社権現
山門の工事が完了したことで三霊社権現も見ることができます。




英勝寺
https://www.yoritomo-japan.com/page137eishoji.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html


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