『吾妻鏡』によると、同日、鎌倉には義経の家臣亀井六郎重清が参着し、源頼朝に「謀叛の心がない」ことの起請文を提出しています。
しかし・・・
5月15日、義経の一行は酒匂に到着しますが、北条時政が護送してきた平宗盛を引き取り、義経は鎌倉に入ることを禁じられました。
5月24日、義経は、滞在した腰越の満福寺から、大江広元宛の文を出しました(「腰越状」)。
広元を通じて頼朝の許しを得ようとした義経でしたが、受け入れられず、翌6月9日、再び平宗盛を護送して京へ戻ります。
(藤沢市亀井野)
源義経の家臣亀井六郎重清が崇敬したと伝えられる神社です。
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藤沢市の北、大和市鶴間にある公所浅間神社には、失意のうちに京へ戻る義経にまつわる伝説が残されているようです。
1189年(文治5年)、源義経は衣川館で自刃しますが、亀井重清も兄重家とともに自刃して果てたと伝えられています。
藤沢市亀井野は、神奈川県の畑作の中心的な役割を果たしている重要な地です。
渋谷重国の領していた土地と思われます。
すぐ隣は大庭御厨です(参考:大庭城址)。
この辺り一帯は、「一所懸命」の中世の武将が開発した土地なのでしょうね。
そして、亀井神社を崇敬したという亀井六郎重清は・・・
「亀井野」という地名と「亀井」という氏には何らかの関係があるものと思われます。
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