鎌倉の大仏・・・
『吾妻鏡』によれば・・・
国宝「銅造阿弥陀如来坐像」は、1252年(建長4年)8月17日から鋳造が開始されました。
(鎌倉大仏)
鎌倉大仏は鎌倉市街地の南西部、大仏切通の南東にあって、その造形は中国の宋朝様式を取り入れながら、これまでの運慶様の力強さを残した鎌倉独自の様式です。
かつては、大仏殿の内部に鎮座し金箔が施されていました。
昭和33年2月8日、国宝に指定されています。
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鎌倉大仏がいつ完成したのかは不明ですが、日蓮が1268年(文永5年)10月11日付けで「大仏殿別当あての書状」を書いていることから、それ以前には大仏の鋳造が終了し、大仏殿もこの頃には完成していたものと考えられます。
※当時の大仏殿別当が誰であったのかは不明ですが、極楽寺の忍性も大仏殿の別当を勤めていた時期があります。
鎌倉大仏の周囲には53個の礎石が並んでいます。
大仏殿は高さ40メートルを超す巨大な建物だったと推測されています。
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大仏殿は、度重なる災害等で倒壊し、その度に再建されてきましたが、1495年(明応4年)8月15日に発生した「明応の大地震」によって大仏殿が崩壊し、鎌倉大仏は露座になったと伝えられています(『鎌倉大日記』)。
※『妙法寺記』では、1498年(明応8年)8月25日の出来事としています。
しかし、1486年(文明18年)、鎌倉を訪れた万里集九は、すでに鎌倉大仏は露座であったと『梅花無盡蔵』に記しています。
万里集九は、京都相国寺の僧でしたが、当時、太田道灌に招かれて江戸城に寄宿していました。
もしかすると、一般的に伝えられている「明応の大地震」時以前に大仏殿はなくなっていたのかもしれません。
平成12年から行われた発掘調査では、礎石の根固め遺構や大仏の鋳造過程を示す遺構が確認されています。
平成16年2月27日には、「鎌倉大仏殿跡」として国の指定史跡となっています。
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当時の最高技術を駆使して造られた鎌倉大仏は、鎌倉武家政権の権威を示すものだったのかもしれません。